2月7日(月)言語は生き物ですから、自然選択もありうる


 こんにちは。晴れ。気温緩むも風つよし。「梅一輪ちきりん
ほどの暖かさ(嵐雪)」かな?

















 一応、近代哲学体系を纏めたとされるヘーゲルはベルリン
大学総長に序せられて、プロイセンの御用学者になりました。
ですからその後の哲学の動向は在野の手に委ねられざるを得
まへんでした。キルケゴールマルクスニーチェ等は皆大学
の哲学教授ではありまへん。ニーチェギリシャ文献学の先生
ザラスシュトラツァラトゥストラ)などに詳しかったの
で「ゾロアスターはこう述べた」という著作を残しました。
拝火教は二元論的な善と悪の戦いで、最後は善が勝つっつう
単純志向。聖火崇拝はオリンピックに引き継がれているとか。

















 しかし、自動翻訳なんてすぐでける今でけると何十年も杉
てしもうたよ。コンピューターもどんどん進歩して、今では
チェスのチャンピオンも簡単に負かしてしまうのにね。
何でまともな自動翻訳機がでけないのか?辞書や文法・文例
はたまた文脈解析など全部入れてもなお余りある記憶容量と
処理速度はあるのにでけない?なぜなんじゃい!
それはね、翻訳つうのは検索ほどシンプルな代物ではナイン
れすぅ。言語における認識の深度つう厄介なものが関わって
いるからです。例えば、エスキモー(イヌイット?)の色に
関する語彙は殆んどあーりまへん。他方、雪や氷の状態を
表す語彙はゴマンと(いや50種ほど)あります。反して
我が日本語には青色一つとってもゴマンと(いや50種
ほど)ありますが、白色は唯一つのみ。つまり関心が深まる
ほど認識は分化し細かい違いを顕わにすると。敬語や人称の
多さも階層社会や文化が反映しまふ。ですから、言語とは生
活や文化でもあるのです。単純な変換規則には乗らないので
すね。そこで暮らしそこの文化に親しみ、ある程度の親和性
を獲得しなければ、元来翻訳などというものは成立しないの
れすよ。言語が認識の歪、色眼鏡、常識、様々な厚みを担っ
ていることの証左れす。それゆえ、新たに他国の文化を取り
入れるときは造語して新たな概念をそれに付与するか、カタ
カナ外語をそのまま使うしかねーのだす。アイデンティティ
なんてかなり個人主義が成熟してねーと意味ワカメだしょ!



















 だから、「日本人ならカタカナ使うなYO!日本語を使えや!」
つう老人の罵声は心情は分るけど、元来無理無駄ムラなのれ
すうぅ〜(自分のせま〜い視野から1歩も踏み出せないしと)。
変化激しい若者語についてイケズに「言葉の乱れだ(怒)!」
とイライラしている老人も、頭が固まりつつある証拠と言える
でせう。




















 今日のまとめ:言語は文化の担い手であると共に、生き物で
あーる!言語に善悪はなーい。ユメユメ殺してはなりませぬ。















 ドヤー!