9月12日(月)鶺鴒鳴(せきれいなく)ころに、小難しい認識論とは。

 概ね曇り、ときどき薄日。23℃〜27℃、77%。セキレイなんて1年中鳴いているんじゃアルマイト






 全てが見えているわけではない:

 アポロが月を回るまでは、月の裏側は誰も見たことがありませんでした。これに象徴されるように、日常生活においても視界の裏の大部分は見えていないのです。我々は単にその裏側があると思い込んで生活しているのです。言語というのにも、そんな側面があります。言語は概念の集積ですが、概念と言うのは分別によって抽出されます。例えば「山は山ではない、ゆえに山である。(金剛教)」は、言語の成り立ちを語っています。

 「 しかし、これは「唯名論」の神髄を語っているのですねぇ。もともとおサルが自然を眺めれば、そこには只自然が横たわっているだけである。しかし土地が聳え立っているとこや、高くなだらかなとこ、広い低地や、冠水しているとこがある。ここまでは名前が無いから山も無い。しかし、上記特徴を識別して、分割し分った心算になって、そこに記号を付す。即ち、山、丘、平地、海、と為す也。と言語化したら、実体化して、後は世界が言語で一人歩きする。つうのが前頭葉の認識。だから、最初から山という実体はあったかも知れないが、山というものを区別する丘や平地や海という山でないものが出来たから山となった、つう分ける分る根源を示したものが印度の論理的(理屈っぽい)世界認識と言えるでせう。光あれば影あり。のっぺりとエントロピー増大し尽くした世界では何も認識することがでけないという、極当たり前のことを言っているのですね。」(2010/10/6エントリより)

 つまり差異を認識し、それを分別して記号を付けなければ言語はできないんです。差異の認識が細かくなるほど語彙は増えます。肉食民族は動物の部位の語彙が多いし、四季のある国では色の語彙が多いし、水と氷の国では氷の状態を表す語彙が物凄く多いんです。哲学の国では抽象的な概念が多いし、個人主義の国では「アイデンティティ」などという集団主義の国には無いような言葉もできます。つまり言語と言うのは生活の総合であり、文化の総体でありますから、言語間の翻訳などというものはどんなに頑張っても近似値にしかならないのです。見えるものしか見えないし、見えないものは見えないという、ごく当たり前の認識が適用されることになります。分けるというのは最終的には2分法になり、即ちデジタルになります。このことから、コンピュータで扱える世界にも当然限界があり、それによって見える世界も限られております。そこんとこよろぴく。どもども。