10月20日(火)無分別とは、なにを目指すのか?

 薄曇り、のち晴れ。16℃〜23℃、55%。遠方靄でかすむなり。




 そもそも分かるとは:

 分かるは分けることによって分かるんであーる。全体が混とんとして一体化しているときは、なーんも分かんないんであーる。なんらかの特徴に注目して、分けると、その特徴が際立って分かるんですぅ。もっと他の特徴で、それらを分けると、もっと細かい特徴まで分かるんであーる。これを仏教では「分別」と言うんであーる。例えば、デコボコした地形があるとしよう。それを観察して、ちょと高い所を「山」、中位のとこを「丘」、裾の広々としたとこを「野」と名付けたのが分別なのれすぅ♪その後さらに詳しく分けていくと、「谷」や「沢」や「盆地」などが生まれます。もともと前からそこにあったのに、分けて名前を付けたのは人間なんですねィ。そこんとこよろしく。

 だから何でも細分化してしまうのは、分かるということの本質に属することなんすよ。そしてそれを加速したのが言語なんですね。細かい差異を分けて切り出し、概念化して記号を付ける操作が言語なんですぅ。それを分かれば分かるほど、詳しく細かくなるので、文化依存で言語が多くなる現象が知られています。極地の住民は雪や氷の表現がごまんとあるし、四季豊かな国では色彩の表現がごまんとありまふ。そしてあらゆる文化は、際限なく分けて分けて、細分化し分かったつもりになるんです。芸術もしかり、社会もしかり、学問もしかり、蚤の睾丸の研究に一生を捧げる研究者もいれば、折り紙にのめり込む人もいる。いやいやあるボールを扱うゲームで、投げたボールを受ける技に生涯を捧げる人もおります。これらを客観的に見下してはなりません。なぜなら留まるところを知らない細分化が人間、言葉、文化の本質であるからなんですぅ。どもども。