4月20日(日)穀雨につらつらとつまらんことを考える

 うす曇りときどきうす晴れ。7℃〜13℃と薄着では少しひんやり。


 そもそも言語を使うことで我々の認識能力は制約を受けているわけです。言語はある事象を切り分けてそれを一般化し相手に通じるように記号化したものだからです。切り分け方が精緻になるほど語彙が増えるのはカナダ北部原住民の雪や氷の表現の多さでも分かるでしょう。分けて記号化して分かったつもりになると。

 金剛教ではこの「分ける」ということを次のように言っています。「山は山ではない、それゆえ山であーる!」これは西洋論理では破たんしています。非山がなんで山になるんだっ!「AはBである、BはCである。ゆえにAはCであーる!」つうのが論理学では正しい推論であーる。しかしてその非山の論理とは?言語の無かったお猿さんが住んでいた頃はただ自然があっただけである。そのデコボコと起伏のある土地をその特徴で分けて裾野とか平野という山で無い所を分け隔てて始めて「山」という概念が誕生したんであーる。つまり言語は本質的に分けて分けて細分化しその特徴に記号を付与することによって成り立つんであーる。

 分けないと分かったことにならない、つうのが言語による理解ということは分かって貰えたかなぁ?すかすそもそも世界っつうもんは元来混沌として全体で一体化した存在物なんであーる。分かって(分けて)なんぼの科学主義の限界がそこにあるんであーる。「分からなくてもいいや。全体のふいんきが感じれればそれでしやわせだい♪」つう右脳芸術主義とは根本的に対立するもんなんですねィ、科学って。「分かる」とは筋道付けて合理化し、その範囲内でのみ納得するってことなんですぅ。それゆえ筋道の付けられなかった大部分はその範囲から放置されてるんです。

 例えば科学が目指しているこの世界の理解、この世界のことがすべて分かったとする。するとそこでジ・エンドであり先は無い。分かると分からない、分からないと分かる。こういう矛盾がすでに分かるということに内在しているんであーる。これはそもそも分かるという事が判って始めて解るんであーる。


 つうことで「分かる」を考量してみたが、これも言語による分析であった。すなわち「分かるか、分からないか」と言う2分法が既に内在しているんであーる。分けると言う矛盾は「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は止まっている」逆理に既に現れていて、分けても分けても分け入れない極限がなければ収まりがつかないんですぅ。プランク定数なんかはその1種かな?ま、分かる/分からないつうのにも色んなレベルが有って灰色空間もあるんですから、必ずしも二分法で1/0で考える必要もないでしょう。ところで世界はイチゼロのデジタルで記述でけるのかどーか? 少なくともヒトが理解でける範囲は記述でけそーな気がしますが解答は一意ではあーりまへん。ども。