9月28日(金)蟄虫坏戸(ちっちゅうこをはいす)、虫たちが穴に籠り戸を閉める頃。

 快晴!14℃〜26℃、44%。久々の秋晴れ。夜中、公園の暗闇を通り過ぎたら、夜の香りに直撃される。夜来香(イエライシャン)?




 ふむふむ、なるほど:分かるとは。

 初台方面に進出す。哲学的な集いなり。また楽しからずや♪日常生活では極当たり前田のクラッカーなことを、真面目に雑談する会なり。そもそも「在る」とは何か?「無い」とは何か?何もない穴の空間は在るのか、無いのか?とか。在ると思てたものが、実は無かったり、無いと思てたものが実は在ったりします。何を以って在るとか無いとか言えるのか?そもそも、この世界が在るのは、物質と反物質の対称性が崩れたからではないのんか?

 そして言語の意味とは何か?そもそも言語に意味なんかあるんか?無意味な音を発している仕草だけに意味があることもありまふ。中身よりも行為自体に意味があると。すかす、その「意味」とか「分かる」というのは、どー云う状況なのでせうか?「分かる」とは「理解する」ことであーる。では、どういう状態になったら「理解した」と言えるのか?主観的に納得したらば理解したと言へるのか?それともテストで満点を取ればエエのんか?テストは誰が決めて、誰が判定するのか。当てずっぽうで当たったら理解したと言えるのか?

 長ーい間の訓練で、かだらで分かると言うのもありまふ。水泳や自転車乗りなど。音楽演奏やスポーツ競技など。机上で頭で理解しても、実際に出来なければ理解したとは言えまへん。そして、意識では分かってないと思っても、無意識下で自動的に習慣化して分かっているいることも多いです。しかも、この自動的動作がないと、全て意識的に行動せねばならず、日常生活もままなりません。

 つうことで、実は「分かる」と言うこと自体が、分かりにくいんですぅ。況してや論理的に辻褄が合うことが分かったことになるとは限りません。無限の概念が入り込むと、日常の直観が理解の助けにならないし、無矛盾を立証することも、でけなくなりましたんや。ま、論理を大上段に振りかぶらずに、範囲を限定して適用し、時には感情(情緒?)にも配慮しながら、曖昧性のなかで暮らしていくのが、生命(含む人間)の生き方ではナインでせうか?アリリリ 分かったようで分からない話で、スマソ、スマソ♪


 う〜ん、ちとワインをがぶ飲みした影響が出ておるな。グーグー