12月11日(土)むむむ無 無っむむむ

 こんにちは。概ね晴れ。暖かな風ややつおし。
訳あり柿を大量に買ってきて大量に食ってまふ。
「柿食えば 金がなくなり 放浪児」 たはっ♪










 代官山方面にて極内輪の第二次忘年会を催す。
昼間から美酒飲んでると、世はすべてこともなし。
ほんとは偽物の世の中にうんざりしてんだけどね。
最近、かろうじて保ってた仮面の皮がほうぼうで剥けてきた
から。世は将に取り繕うのに精一杯。たっは〜〜〜











 ゴー玉・シッダルタは「無記」ということを言ってて、
こりは「語れないことは語るべきではなーい。」つうヴィト
ちゃんに通じるかも。すなわち、来世であるとか、魂と身体
の関係とか時間の永遠性や空間の無限性とかの果てしなき
言論はスルーするに限る、つうこと。議論してもキリが無い
し、永遠に結論は得られまへんがな。 それよりも、もっと
みんなが現実に困ってる問題に注力しようよ、つうある意味
現実的ですが、前向きな姿勢だすね。
















 でも西洋の方は、じびんで勝手に定義して、じびんで勝手
に撞着してるってとこがありまふ。つまり、「神様は全能で
あり、無限定である。」と定義したあと、そのように神様に
言及すること自体が既に規定することであり限定されている
ことであるから、神は神で無くなるのだ。「神様は全能の
存在、100%の存在だ。」と言った瞬間に破綻する定義。
つうことで言葉にしたら無になる「無」なのれすね、絶対
つうのは。 ダンシンオールナイ♪ こーとばにすれば♪
ダンシンオールナイ♪ うそーにそまる♪







ハッア〜 










 「生きているのは、もはやわてではありまへん。わての
うちにキリストはんが生きておられるのです。」(パウロ
つまり私は私ではない。私を「無」にした中に神があるのだ、
という信仰がありました。何物にも捉われない形での「無」
が信仰の核心であると宣言しますた。これが遅れてきた弟子
パウロが後のキリスト教を主導した所以です。しかし、論理
を信仰に持ってくると論理で対抗するしとも出てきまふ。
すなわち、「私は私ではない」と考える事自体がすでに何ら
かの関心を持っていることになり、何物にも捉われない形
での「無」では無くなるのだ。という信仰自体を定義でけな
くなる自己撞着。そこで「無記」になるか、はたまた否定
神学になるのかは論理への執着度合い。「〜でない、〜で
ない、〜でもない・・・」と否定していって、最後に残った
「仄めかされているものが神である」という迂遠な方法論
も結局関心は生じてるじゃんかい。












プップ〜