12月2日(木)社会性生物における個と全体の問題はドツボに嵌る

 こにゃにゃちは。薄晴れ後うす曇り。暖か。深夜から師走
の嵐襲来とか。明日の気温は5月並?












 もしも人間に成長とか進歩というものがあるとすれば、そり
は何でせう?自己実現って何を実現すんのかさっぱり分りま
へ〜ん。もともと生まれた時には自分らしさなんて無いしね。
むしろ自己否定つうか自己からの脱却が成長といふものでわ
ないでせうか。














 産まれたばかりの赤ちゃんは殆んど自分のことばかりで
お腹がすいたり不快があると泣いて知らせまふ。それがだん
だんお母さんを始め周りのことが分るようになり、人見知り
をする頃には人に気を使ったりしますね。思春期には自分よ
り異性のことが気になります。そして社会にでると人と上手
く付き合えなくては生きていけまへん。家族や近所の人に優
しく振舞えるのはかなり成長した人でしょうね。地域の人や
見知らぬ可哀そうな人々に同情できればもっと成熟した人物
になれるかも。地球の裏側の病気や餓えた人の役に立てれば、
それはもうマザー・テレサやシュバイツアー。狭い狭い個から
世界の中へ自分を拡げて行くこと、これが人間の成長といふ
ものではないのかな?つまり欲や偽の自己を削ぎ落として、
「自分を無」にしたりできれば、そこに新しい自分の成長が
望めるのかもしれない。キタロー氏の「自即他、他即自」と
か「内即外、外即内」はたまた「一即多、多即一」の解釈に
迷う一日。自分と公共、個人性と全体性(社会性)って共存
でけるのかなあ?















 個人は環境の中で育てられるし、環境はその中の個人に
よって作り変えられます。ニワトリと卵のような循環関係。
個人主義全体主義はどっちに行き過ぎてもアブナイですぅ。
では、宙ぶらりんがエエのか、絶えず否定を繰り返す相互
否定関係を現実として直視するほうがエエのか、賽を振って
どちらかに固着するかは、じゆうぢゃあああ〜
















 欲を脱して公共のために生きるというのが成長なら、国家
は未だに幼児れすね。国益とか自国民の保護とか自国のこと
ばっかしぢゃん。みんなで苦しみ、みんなでしやわせになろう
よなんて夢のまた夢かよ。




















追記:情報だだもれは日本ばっかしぢゃなく米国でも流行って
ますね。秘すれば花か、おっ拡げれば股かはわからねど、永遠
に秘するつうのはダメダメな希ガス。情報の種類によって時限
を設定し、いつかは歴史の判断に委ねようってシステムが現在
の振る舞いにも真摯さをもたらすと思うんだ。ホワンカンも永
久に闇に葬られるとおもたからリークしたんぢゃねえのん。





 知る権利と守秘義務表現の自由と有害表現規制、の百年
戦争。権利と義務とか自由と規制とかの概念的かつ抽象的な
議論じゃなくって、個別具体に話し合えるオープンな場(
例えばネットなど)を常設でければ、少しは前に進むのかもね。
何れにしろ難しい。人生とおんなじくらい難しい。矛盾を孕ん
だまま、飲み込んで生きてくしかないのかな。多分すっきり
しないよ。どんな時代でも。でもまた考えよ。考え続けよ。





表現側と受け取り側、どっちも主観的なのが多いよね。
・侮辱された
名誉毀損
・キモイ
・恥ずかしい
・怖ろしい
・残虐
・ホロコースト煽動
・騙す
・煽る
・汚い
・猥褻
・表現を禁ずる表現
表現の自由は有害だ
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
何処まで自由に出来るんだろうね???







おう、おもすろい表現めっけ:
speeking plant approach(植物情報活用手法)
speeking cell approach(細胞情報活用アプローチ)

ものに「語らせる」ってのも情報なんすね。


切りがないから、途中でども。
ブラタモリ見てこよ。どもども。









ドーモ