10月15日(金)或る文学者の心の叫び

 こんにちは。うす曇りときに薄晴れ。落葉日々に多し。









 世間ではノーベル平和賞劉暁波氏の受賞で賑わってい
ますが、先日大隈講堂で行われた東京国際ペンクラブ大会
にて、2000年のノベール文学賞高行健(カオ・シンジェン)さん
の講演を聞いたので、忘れない内に記すなり。










 一見しょぼいおじさんの風貌でしたが、話を聞くとその
内心は将に燃える火の玉でした。こころある者なら、感銘
受けざらん者あるなからん。天安門の2年前に巴里にランナウエイし
たと言うからひょとしてサンジェルマン辺りですれ違ってるかもね。
アトランタのポールダンサースタジオでは深い目(虚無的)
をしたベトナムの元権力者も見かけたから、何処で誰に会
ってるかは偶然ぢゃ〜!










 氏曰く:文学は個人の力、直接世界は変えれない。ただ
人々の内心(苦楽?)を描くのみ。その時代の状況認識を
真摯に記すことが勤め。文学に特権とかがあると思ったら
大町害。ホントにただの記述者なのれすよ。










 しかし近年の中国においては、政治支援(や一部市場の
流行)に関わらない作家は苦境に直面している。精神の
独立を維持し利益を超越している作家の現状はどーか!
文学はなんにせよ政治に介入すべきではなーい!介入すれ
ば、政治の飾り物になーる。如何に孤独に耐えられるかが
文学の真価になるのでわ?











 単純な是非や(論理的な)判断からは一応身を引くこと。
世の風潮などすぐに変ります。世の中の真実、誠意、良心、
といったものも、イデオロギーや宗教というものも、革命神話
も文字や説教もすぐに紙屑になります。文学は政治からの
脱却、イデオロギーからの脱却を特に中国では目指すべきでせ
う。また近年では、金銭からの脱却もね。












 でわ、哲学に拠って真実の根源を探求すべきか?→ノー!
作家は不完全な世界を描き、その中から美を探究すべきで
す。作家の美意識が判断基準れすぅ。これしか政治や習俗
から自由になれる道はないのれすぅ。習俗に振り回された
ら、あっという間にショーと化してしまいますぅ。










 文学には前提がありません。人の欲望と社会の関係に注目
しますが、結局生身の生きて苦しみ楽しむ人間自身に回帰し
ます。反して哲学は普遍的かつ抽象的な人間を分析します。
人間の苦境に真に触れるものが文学なのれす。











 カフカの工業社会の不条理の記述は、カミュにつながり、
自己存在の根源への問いかけを顕在化しますた。これはロック
が形而上的に表面化したものれす。宗教を文学として読む
と。文学も現実的功利から離れた人間の精神の探求として
屈原(反骨者)を思い出すべし。












 神(または運命)という不条理に抗しようと足掻いたのが
文学。情報化社会も苦境を改善でけなかった。メディアや
市場、広告と向き合える個人の真実は文学にしかナインれ
すぅ。文学とは自己確認の欲求という切実な声!人類の
認知の伝承。宗教と言う限界に挑戦するパラドックス。他
者化した自分?自我の無節操な膨脹??自分とは他者だ!
自我の壊滅。ハレハレ、もうここまで来ると何をか況や。











 文学が国やイデオロギーの道具になるのは自滅の道です。そ
れは長続きしないし、決して残りません。市場主義でもそう
です。文学は生まれながらの普遍性を持つはずです。主義の
ない文学、経験と観察で人物を作成し陳述する。宣言や運動
のない文学が残ります。











 表現は個人の権利であり、作家本人の自由です。人間性
奥底にある貪欲を表現できるのは文学だけだと思います。
嗚呼、この人も国に帰りたいんだろうなぁ!滂沱涙涙!!!












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