6月27日(日)日曜日はお中元出して、哲学に浸ると

 こんにちは。終日うす曇り。ときおり小雨ぱらぱら。蒸し
蒸し、ムシムシ、むっしっし〜。肌に粘り付く湿気のなんと
ウザイことよのー。とは、言え香港では一年中こんな湿度で
ネイティブ以外の人は金魚のようにパクパクと喘いでいるよ。
有名なホンコン・フットとはなんでせう?













 今日はお中元を出しにデパートへ行きました。お世話に
なった先輩を敬うのは日本の習慣。心ばかりの付け届けが
商売を動かす也。ま、世界中どこでも同じだとは思いますが
「信用」つうのは基本ですね。「信用は元手なり」で金は
無くても面倒見てくれる人がいれば商売はできます。その
かわり一端信用を毀損すると、特に日本社会では再チャレンジ
の機会は針の穴より狭くなります。だから事業者は命がけで
信用を守ろうとするのですね。考えればおとろしいシステム
れすが、都会のジャングルではこれ位の商道徳がなければ、
獣道へ入ってしまうのです。詐欺師や裏切り者は一時の蜜は
吸えても、一旦社会からはみ出してしまえば死んだも同然。
ヤクザが足抜けし辛い社会なんでしょうねえ。
新卒一括採用、キャリア・ギャップのある者への不利な処遇
などはこの流れなのかな?運命共同体的な利益集団とか。















 つう下々のことはさて置いて、アプリオリ(前もって決まっ
ている、生得的?)な性質とアポステリオリ(後から決まった
、経験的?)な性質をどう切り分けるのか?が認識論において
大きな争点になったことがあります。これは前にちょと書いた
ヒュームのエゲレス経験論が破壊的な影響を及ぼして、科学の
基礎がグラグラと揺すられたからです。「経験だけに依拠すれ
ば、全ての法則は単なる習慣による思い込みに杉なーい!」と
いう宣言に、真摯に思考をする観念論者たちはその独善性を
悟って、科学的な思考の再構築を図ったのでした。














 その筆頭はドイツ観念論の雄、カントです。「純粋理性批評」
において経験論と観念論の特質と限界を批判的に論考し、認識
主体による合理的な思考とは何なのかを調停(裁判において双
方の言い分を精査し判断する事)したのでした。






 合理論:人類が予め共通に持っていて猿にはない認識の形式。
     1.感性を通して入ってくる情報を認識する形式(
       時間・空間)により直観を与える。(猿にもある)
     2.因果律など12のカテゴリー形式で概念を与える。
       (言葉による概念化は猿にはないと思われる。)


 経験論:このような形式(器)の中の個別的な内容を経験や
     習慣により与える。



という「器ー内容」住み分けにより、科学的思考の再構築が
図られますた。即ち、科学的な法則の中で方法論はアプリオリ
な形式で成り立ち、科学的な事実は経験や習慣により保証され
る。ですから、科学的な発見は絶えず事実によって否定、修正
されながらも、その方法論は合理と客観性の足がかりを保つと。














 ふ〜む。見事なコンプロマイズではありますが、結局人間の
認識能力の範囲外の物自体は最後まで認識不可能である、という
不可知論の深淵が、すぐそこまで迫ってきている際どい解釈で
した。感性で言えば:赤外線や紫外線は認識でけないし、超音波
も聞こえないから、それらは例え在っても分からんよ。悟性で
言えば:認識している自己は捉えようとした瞬間に対象化される
から永遠に捉えられず、形而上的な絶対者とか神も有限な存在(
人間)からは決して把握でけないという、ある意味とても誠実で
真摯な見解に至りますた。未だに菅人オタクが数多い所以でせう。







 





 毎日10時間、2年間猛烈に勉強すれば大抵の者にはなれる
んじゃないのかな?と言う感触を過っての友人の経験から持っ
たけど、こないだ会ったハーピストは「毎日10時間20年、
来る日も来る日もハープを弾いてたけど、未だその楽器の入り
口に立ったに杉ない」と謙遜気味に話してた。芸術の道は深い
なあ。人間も深いなあ。浅く見れば浅いし、深く見れば何処ま
でも深くなれるのが人間也。人は皆、自分の殻に合わせて世界
を眺めてると。ナウ・アラース!