6月20日(日)経験だけが唯一の拠り所、つう親父は気を付けなされ


 こんにちは。うす曇り。引き続き蒸し蒸しあちゅいですぅ。









 「神も仏もあるもんか!」とか「万能者や絶対者なんてぜっ
てーいないもんね。プ」と言った人は日本には多いんぢゃな
いのかな? 自分の知覚や認識しか信じない経験論者。ま、
科学的な合理主義にも通じるし、人間には見えないし知りえ
ないものについて言い争うのもダルイっつう現実主義かも知れ
ません。プラトン(理念派)とアリストテルス(現実派)の
時代から続いてる流れは、西欧では大陸派(観念論)と英米
(経験論)に引き継がれますたよ。そのエゲレスでロック、バ
ークリと続いた三代目、ヒュームっつう面白顔のオヤジが所謂
「哲学の壊し屋」と言われている傑物。菅トを肇とするどいつ
も大きな影響を受けただよ。








 ヒューム曰く:この世界には「知覚」しかねえ!それは直接
五感から入ってくる「印象」と、それを概念化、心象化した「
観念」とから成る。で、それらの単純なのを合成して複雑に
なった出来事(エピソード)が習慣で経験を構成してるんだ。











 で、毀しの第一:因果関係は保証でけなーい!
科学っつうのは「いつでも、どこでも、誰がやっても」成り立つ
法則(因果律)によって成り立つんだが、それを保証するものは
ホントは無いんです。100回成り立っても101回目に成り立つと
思うのは単なる習慣からきた思い込みに杉なーい。(これは
宇宙の絶対法則とかを前提にしなければ、論理としてはホント)



毀しの第2:知覚の対象の同一性は保証でけなーい!
知覚が一時中断した後の対象が、まえのものと同じだというのは
想像力のなせる業であり、継続的存在というフィクションを保証する
ものは何もなーい。(これも経験だけを前提にすればホント)



壊しの第三:知覚している自分の同一性も保証でけなーい!
自我とは知覚(暑さ寒さ、明暗、愛憎、苦楽など)無くしては
捉えれナーイ。自我は様々な知覚の束の集積に他ならなーい。
だから心は劇場のように知覚の運動する場であるから、寝てる
うちに入れ替わってないとは言えマセーン。(実際、多重人格
つうのはプリテンドぢゃなくってあるんですぅ。)









 さて経験論だけに立脚すると、斯様な因果関係、や対象/自我
の同一性っつう日常生活に必須の事象が否定されちまいマスカラ
、我らはアプリオリ(先天的)な認知能力、はたまた絶対者を
必要とするや否や!でも量子論によれば存在自体が確率的なもの
だし、対象や自我の同一性つうのも様々な心理的な事実で否定
されつつあり、ヒュームで哲学は終わったという先人の感慨も
故なしとはしないですぅ。









 因みに科学との関係でいへば、アインシュタイン@一石氏は
ヒュームの信奉者であったし、ヒュームの後継者(観念論と
経験論の美味しいとこ取りとか揶揄もされちょりもすが)で
ある菅(直)人を量子力学のハイゼンベルグは信奉してますな。
で、ぼくの友人がハイゼンベルクの孫と友達だとか吹いておった。プ
つまり、科学も哲学も、いやいや音楽や数学も人間がやるもの
ですから、あらゆる人間的なものが含まれチョルと言う事です。
妬みとか強欲とか見栄とかの負の局面も当然含まれてますね。
あんまし科学や芸術を綺麗ごとにしないようにね。(玉虫の
箴言その800より)














バッハッハ、ヘンヘンヘンデル、弁当ベン