6月19日(土)質と量の問題とは(インターミッション)


 こんにちは。朝のうち雨、のち薄曇り。蒸し暑い真夏日
遠方が蒙気でどんよりと霞んでムシムシ感がいや増すぜい。







 トリアージ(選別)は医療資源が極端に不足する場合の
救命効率を上げる手段として推奨されている。助かりそうな
中から重傷な順に処置をしていくと言うもの。とても助かり
そうもない重体者は結果として放置される。統計的には
最大数の救命を目指すものである。









 リスク管理において、昔は死亡率が使われていたが人間は
必ずいつかは100%しむのでこれは統計に馴染まない。そ
こで想定される寿命をどれ位毀損するのか?という損失余命
というのでリスクを統計的に扱おうという考えがでてきた。








 さらに寿命は縮めないまでも生活の質を落とす障害リスク
をも統計的に扱えるようQOL(クオリティ オブ ライフ)損失の考え
方が出てきた。







 以上3例で統計とは数字であり、数字は量を表すものである。
ここでは質というものが余り考慮されなくなる。「最大多数の
最大幸福」とか「最小不幸社会」とか、論理的には合理である
が、が、なんかウスラ嘘くせえよな。重体で放置されるより
叶わぬ努力を少しでもしてくれたら遺族はどれくらい救われる
でせうか?そのために治療の統計数字が少し落ちても社会の
信頼度は上がるんぢゃねーのかな?多分。分からんが。







 損失余命では若人の損失年と老人の損失年は例え量的には
同じでも質はちげーような気はする。どっちに価値があるの
かは言わんけど。それぞれに言い分はありそう。これも質の
違い。QOLでは普通の?健常者と障害を持った人の損失クオリティ
に差が付けられそうな悪寒。








 主観まで含めた質の問題の大部分は、冷徹な統計数字の世界
から取りこぼされており、しかも人生の大部分はそのような
もの(質の問題)で構成されております。










 管理(コントロール)とは斯様なものであり、仮に質の定量
化を図っても、それは却ってノイズを混入させる結果を招きま
す。学者、官僚、政治家、経営者などの管理層はよくよくこの
本質を踏まえた上で、血の通った管理を心掛けるように。(
玉虫のひと言提言より)











 とか、鹿爪らしく小賢しくヒマを潰しているうちに決戦の
時間が迫ってまいりますたYO!
がむばれ〜!!!