6月3日(木)今ここに斯く或ると実感できたなら、自己の根源を知りたくなるでしょ?ん?

 こんにちは。清々しい晴れ。かなり日が長くなったと思った
ら今月はもう夏至ですね。7時過ぎてもまだ明るい。










 知識があるつうのと、身に滲みて実感するつうのはかなーり
ちげーよ。「人間は必ずしむ」つうのもその一種。それを心か
ら身に滲みてひたぶるに実感してたら、毎日の生活もチゲーだ
ろ?ってなもんや。












 だいたいしむ以前に、今ここにこうして生きているつうこと
自体が如何に奇跡的なことかは、ちょと考えればすぐに理解で
けますね。何億の競争に打ち勝って受精する以前に、両親が
出会わなくちゃならんし、その両親も正しい時期に生まれニャ
ならんし、その両親の両親も・・・なんて遡れば如何に自分が
今ここに現前してるか?つうことの確率が低いかが分かります。
1/∞(無限大分の1≒殆んどゼロ)ですね。これが今ここに生
きて現前してんだから、1/∞x∞=1。ゼロに等しい確率に
無限大の可能性を掛けて、今ここに居るのですね。だ・か・ら
今この世界に生きている全ての生き物は皆奇跡なのれすよ。













 三年ほど前から折に触れキタロー語録を紐解いてるんですが、
一向にシムポがなーい。「自己という固定した存在はどこにも
無い。あるのは経験や意識の流れだけだ。」つうのは分かる。
「主観客観の区別のない世界と自分が一体化したような経験が
真の自分のような希ガス」つうのもホンノリ分かる。「自己が
自己において自己を写す。」つうような心境。









 しかし、自分も他人も一緒だよという「自即他、他即自」が
自己中の漏れには共感だにでけなかったのです。「他において
自己を見る。自己において他を見る。」つうような心境???
これが最近薄っすらと分かるかなあという心境になっただ。
つまり今までのキタロー語録を斟酌すれば、日常の現実界では
勿論漏れの人格と喪前の人格は全く別物である。これを同じに
考えようなどとは、「漏れの物は漏れの物、喪前の物も漏れの
物」と言うくらい超我が侭な思考であろう。













 ここで自己の奥深く純粋化を試みて、あらゆる欲望とか我が
侭、利己的な考えをドンドン、どんどん殺ぎ落とすせたら、真の
自己に限りなく漸近し、欲に塗れた偽我から真の自己の根源に
至れるのだァ!とのキタロー啓示を信ずれば、その最も底では
自分も他人も無かんべえ、つう理路かな?ツーツーリロリロツー
リーロと。所謂「禅定の悟りの境地」では漏れもてめーもねー罠!
てなもんやあ〜!!!哲学か宗教か分っかんない〜?











 さて、独善的解釈も少しずつ狂気を増しておりますが、未だに
その糸口さえ掴めないのが、「物となって見、物となって考える」
つう「絶対無の自覚」の境地でやんすね。いつか薄っすらと解釈
でけるようになればイイな。そうしたら夕べに死すとも可也かな?
「自己とその自己の根源とは何か!」に終生拘ったキタロー先生
が「他者」どころか「物」にまで至ったとは、想像するだにおとろ
しー。







タハッ