6月23日(火)自己表現つうのが内と外を繋ぐチャネルみたいだね


 こんにちは。概ね晴れ。暖かい。つうか昼は暑かったあ。
朝方久しぶりに野菜の種をまく。物事は種を播かなくっちゃ
始まらないからね。






 今は一年で一番紫外線がつおいとか。ソウ言えば可視光線
みんな電波(電磁波)の一種なんだよな。赤外線の外はミリ波、
マイクロ波、短波、中波、長波と広がり、紫外線の外はX-線、ガンマ
線とかの高エネルギー領域へと拡がってます。みんな同類。
電波一族ですぅ。それでこれらの波が何の媒体もない真空中を
どうやって伝わって行くかっつうと、右足出して右足沈まん内
に左足出して左足沈まんうちに右足だしてっつう具合に真空中
を互いに電磁誘導し合いながら縺れるようにして進んで往く
仲良しさんなんですぅ。








 さて、そもそも哲学は学問でありすべての学の基礎を与える
ものとされております。つまり論理であり言葉であり理屈なの
です。ですから幾ら学を修めても実践が伴わなくっては身に
つきません。この辺が宗教や道徳などと少し違うとこでしょう。
いくら畳の上で考えても泳げるようにはならんからねぇ。








 しかし本質を考え抜くっつうことは実践になんの役にも立た
ないとまでは言えんから、行動の意慾の基としての意義はある。
それで「行為的直観」とはなんぞや?







 直観とはキタローいわゆる「純粋経験」による知的直観の事
でした。純粋経験とは考える主体と考えられる客体が未分の
ことで分別がつく前の幼児や、大人になったら無我夢中で我を
忘れてなんかやるとき、さらに芸術家や高僧の忘我の境地など
を表現した用語ですぅ。直観とは受動であり、静であり外から
内へと向かう精神活動であーる。しかるに行為とは能動であり、
動であり、内から外へと働きかける活動であーる。この二つに
は共通するところなど一つもないのであーる。即ち絶対矛盾で
あーる。






 そこで、キタローはですね。ポイエシスという「制作」、
いわゆる表現によって自己を発見していく、自己実現していく
行為を通して「絶対矛盾的自己同一」を図ったのですね。偉い
です。






 例えばゴッホとかの巨匠をとってみると、まずヒマワリとか
の対象に興味を持って(直観)それに関心をもち描く意慾が
湧いてくる。そしてキャンバスに向かって表現活動を開始する(
行為)。即ち、直観(興味を持つ)即行為(絵を描く)である。
また、絵を描いてるうち(行為)に、自分の内面が巧まずして
絵の中に写し出されていく。そして画家は今まで気がつかなか
った自分自身を発見する(直観)。すなわち行為即直観である。







 こうして行為が直観と相即的に自己同一され「行為的直観」
となるのであった。いわゆる「忘我」(エクスタシー)が表現行為の
本質であって、このとき外にあった花が自分の内に入りこみ、
また自分でも気がつかない自分の内心が外の画面に染み出すの
である。物を外界の全ての事物(世界)と捉えれば、「物と
なって見、物となって行う」というキタローの呪文も少しは
分かった気になるのでした。







 まだ分からないのは自己と他者が相即、相同であるっつう
「自即他、他即自」の思想だな。これはわたしがあまりにも
自己に凝り固まってるから、もう少し我執を去りホントに
利他的になってからまた考えよ。






 さて次は心理学の元祖ウィリアム・ジェームスでも読んで
見ようかな?世界には色んなことを考えてる人がいて退屈
しませんねぇ。ホクホク