6月22日(月)げげげのキタローぢゃありません西の方の田です

 こんにちは。曇り一時雨降ったりやんだり。こういうときは
傘を持つか持たざるかに迷います。昼に食事に出たら驟雨に降
られたですよ。¥105の傘をイッパイ仕入れるとイイかも。




 最近、心理的な事実ってえのに興味津々。人のこころっての
がどー動くのかの内省的かつ統計的な事実。単に物理的な現象
だけが実在する事実ではあーりません。物は普遍的な物理法則
に従うのかも知れませんが、「おれがどー動こうが、おれの
自由だ〜!」っつう生き物もこの世界には実在してるのです。






 生物の動きというのは、一見決定論的でないのが嬉しいよね。
しかし、生物はすべてDNA上に記述された遺伝情報という設計図
で決められてるだあ!つう意見が今の遺伝学会では主流ですね。
でもね、これは些か短慮ですぅ。未だ分かってないことは一杯
あるし、環境の影響だって発生過程にはすごくあると思うんで
すね。そーぢゃなけりゃ生き物なんてこんなに蔓延ってねえさ。






 つまり生き物は環境に働きかけて環境を変えるけど、逆に
環境によって変えられるという相互影響を受ける相補関係に
あります。人間でいえば、孟母三遷で環境の影響は過多ですが
、また社会環境はその構成員によって大きな影響をうけます。
これが心は周囲の影響で造られますが、また心が外部の社会
環境を作っていくことにあるという、「内即外、外即内」の
キタロー第一定式を導くものであーる。






 一方、個々の細胞が有機的に機能して身体全体を作ったり、
体が個々の細胞の役割分担を決めたりしてまする。またある
特定の個人を見ても、これは日本人だとか中国人だとかは
すぐに分かりますよね。また国全体はその中の個人を国語や
文化、習慣、宗教などで形作ったりしてます。すなわち要素
が全体を形作り、また全体が要素を規定する関係がみれます。
「(個々の)多即一(全体)、一即多」の相即的な関係が
キタロー第二定式と言われるものですねぇ。






 この第二定式はタマムシも流石に未だ理解半ば。個人が
普遍の大河の流れに合流できるほどの悟りやあるや。また、
大河の流れの一滴がわたしであるなど理解の外。むずかすい。
難し杉。いつかこういう心境が分かったら自分の境遇など
如何ばかりのことやあらん。






 このように「即」(すなわち〜なり)という関係がお互い
に成り立つ「相即関係」がキタロー語録の肝ですが、一見
まったく異なる「内なる心と外なる自然」や「個物と全体」
などの概念が深い思索によって相同となることを弁証法
おける止揚に対抗して「絶対矛盾的自己同一」と唱えてヘ
ーゲルに対抗する哲学体系を構成したのでした。ジャンジャン






 簡単に止揚でける矛盾など、もともと矛盾ぢゃねーわな!
ヘン!つうのが絶対矛盾という意味ですね。ワシの哲学は
その絶対矛盾でさえ同一化できちゃうんだい。どーでえ!
つう、つおい心意気が感じれる造語ではごぜーませんか?
さて、哲学ると眠くなるからこの辺で。






 さて、キタローは、知(知識・科学)、情(芸術)、意(
倫理・道徳)のうち意を重視しる主意主義直観主義でした
が、後年に真の自己の探求から実社会での実践に還相して、
「行為的直観」なる観想に至りましたよ。これについては
また後ほど。では、もやすみー♪ク〜ク〜ク〜