6月21日(日)自由について自由に夏至タルト崩壊してみた


 こんにちは。今日はもう夏至ってゲシタルトかよ。ついこないだ
初詣に行ったとおもてたら心理的な時間がドンドン加速度を強め
ている件について。久しぶりのつゆらすい雨。朝顔の種を播く。





 なんか最近はカキコが徒に、悪戯に長くなってきた。いやね、
ビールを舐めながら日記を書いてるときが至福の時間なんですよ。
つまらん至福だとお思いの御仁もいらっしゃるかと思いますが、
ブログをどー使おうと、それは各人の自由だあ〜!!!
ま、自分の自分による自分のためのブログだからね。構成なんて
考えてるヒマも能力も意思もないわな。プ





 自由か、自由でないか、それは主観に依存する概念ではアルマイト。
「自由を制限する自由」ってのも考えれるから、「自由」っての
は自己言及的なパラドックスを生ずる危険性はありんすねぇ。




 自由とは:(他人に迷惑をかけない限り)自分の好きなことを
とことんしても良いこと。他の拘束を受けないで自分の意のまま
に行動できること。といえますか。




 表現の自由言論の自由とか、人をdisる自由とか、俺はdisら
れるのはイヤだけどあいつをdisる自由とか、人のプライバシーを
侵害したって自由だとか、際限ありませんねぇ。それでここから
自立(in-dependense)もでてきます。自分ですべてできること。
自分が自分の主人になること、とか。でもね、これらは自分が
青年壮年のバリバリ活躍できるときのことで、人間は歳をとれば
必然的に足も目も脳も衰えてきてdependentになるのが加齢つう
ことだす。だからホントはin-ぢゃなくってinter-dependense
なんですね。つまり自立とは、安心して頼れるネットワークがあること
と一体であるつうことだす。







近代社会は主に次の二つの原理で成り立ってるとかゆわれてます。
その1.自由の原理:(自分が)できること、すること、してきた
ことで選別し競争する資格社会。入試・入社・各種資格などで選別
され、その中で自由に競争する自分主体の考え方。

その2.人権の保護:これは逆に、何もできなくってもただいるだけ
でイイんだ。という思想。福祉や平等という概念に発展した。これは
自分が他人にとってどういう存在であるか、つまり他者から見た他者
(=自分)という考え方。





1.はリベラルで2.はデモクラートとかゆわれていて、ときに争い
ときに補い合う相補的な思想です。
この二つの考えのハザマにあって、ときに1.が主流になり、また
ときに2.が主流になったりして互いに争い補い合って社会を支え
てきましたよ。






 とくに、自由(liberty)には責任(responsibility)が付随する
とかゆわれてますが、ホントはこれは懲罰的な責任とって詰め腹で
はなくて、他人の(絶望したり悩んだりする)呼びかけ、叫びに
いつでも答える(reponse)用意があること、能力(ability)がある
ことを示しています。もともと自由自体には(liberality)という
意味があって、これは寛大とか気前のよさを含む自由ですね。大切
なものを人に気前良くあげれる自由です。






 careの本質は、人にお金や物をあげることではなくって、最後は
自分にしかないもの自分の大切な時間や自分の関心を、弱ってる人
困ってる人に気前よく上げる自由だあ〜!









 以上、ワシだ、ワシだ、ワシがワシだキヨカズだあ〜の本を読ん
でたら、とつじょ涙がぼろぼろと溢れてきて、叱咤された意見だよ。
俺の詰まらない時間なんて幾らでもあったのにね。困って悩んで
るときも自分のことばっか考えて、自分の時間を気前良くあげた
ことなんか無かった。もう、すべて遅いんだけどね。ただただ関心
を持ってだまってそこにいて聞いてるだけでも良かったんだ。
こんなことなら誰にでもできるわい。だけど気がつかないと生涯
できない類のことなのかもしれません。







 人間って関心も持たなくって、関心も持たれなけりゃ居ないも
同然の生き物なのですね。だから関係性のネットワークこそが
人の間の本質なのだあ〜〜〜〜!