3月3日(水)3千3百3十3年3月3日は人類に訪れるでせうか

 こんにちは。うすら晴れ。一転して昼間は温か。着る物で
こまめに調整しないと体力を落としますぅ。おっと、奇数の
ぞろ目は節句だすぅ。雛あられを食った。








 受動(感覚性:sensory)と能動(思考性:intential)の
出会うところ、それが認識の原点ですね。つまり双方向である
と。つまり見えるものの大枠は決まってるけど、見たいもの
しか見えないと。聞こえるものの大枠は決まってるけど、聞き
たいものしか聞こえないと。これが主観的な時間にも当てはま
るとか。sensory simultaneityとintential simultaneity
の出会う狭間。それが偶有性(contingency)だとか。予想
できそうなのと出来そうにもねえのの混在、確かに起こり得る
のと確かでない出来事の両義性。そんな中に人生があると思え
ば頷ける。過去ばっかし見てるからイフは無いように見える
だけぢゃん。先が全部見えたらホントに詰まらないよね。わっ
かんないから生きていけるんぢゃん。










 「自即他、他即自」というのがイマイチ分からんかったけど、
最近の認知神経科学によれば自己は独立しては存在しえません。
他者との関係の中で、そのネットワークの影響の中で始めて
自己の社会的な性格が構成でけるらしいのだ。即ち他者は自分の
鏡であり、自分は他者の鑑であるという相互存立がキホン。自分
だけでは無に等しい。マイナスの無いプラス、貧乏人のいない
金持ち、野党のいない与党、親のいない子供、社会のない人間、
って存在し得ないとしたらば、纏めてひとかたまりで存在しよう
よ!という事かも知れんなあ。即がそのままイコールってことぢゃ
理解でけなかった訳だ。次は「自即多、多即自」の解釈だね。
これは部分と全体、個別と普遍、要素と集合の関係だな。自己
否定的な要素の扱いをどーするかが課題ではあります。











 ではでは、哲学な夕べはこれにて。ほげほげほげほげ。



次は反復、トートロジー、言語の身体性についての考察を罵詈雑
言的に卑猥に語ってみようかな。シット!スノファビッチ!ファック!