9月2日(水)善と悪のハザマでのたうつ人生かな


 こんにちは。今日もまた一転して涼しい。曇り。
セミたちも最後の物悲しい鳴き声を、声を枯らして叫んでる。
ああ、候補者にダブる。










 どんな偉大な打者でも、その弱点や欠点は得意なゾーンのすぐ
側にあるという。











 つらつらと世の中の理(ことわり)を考えるに、この世の悪、
汚いこと醜いものは、正しいこととても美しいもの人間性にあふ
れた優れたことのすぐ近くにあるのではないかと、これはだいぶ
以前からウッスラと意識の表層に浮んでは消えていた。









 例えば、ドイツ・ロマン派のシルレルやギョエテの誠実や友情
の影で、ワーグナーの美しい旋律の影で、民族浄化の基底音が
鳴り響いていたとか。










 悪がただの巨悪として厳然と存在しているのなら、これほど
世の中に蔓延らないのだろう。言わずもがなだが、戦争や虐殺が
誇り高き高貴な精神から発したことは山ほどある。己が義を守る
ための宗教戦争や民族の誇りを守るための浄化などは記憶に新し
いところであろう。











 世界を神の福音で満たそうとのエヴァンジェリストたちが
植民地収奪の先駆けになったことも歴史的な事実である。(
例え、彼らの敬虔な信仰心が真実のものであったとしても。)
まだまだ思いつかないけど、本当に芯から優しいこころが複雑
な行程を経て、どこか遠いところで悪を為していることもあり
そうな気がする。













 真空から物質と反物質が対で生まれたように、無から真と偽が、
善と悪が、正義と不義が対で生まれたのは確かなように思われる。












 では我らはどうしたら良いのだろうか。この世の良いこと美しい
もの優しいこころ正しい行いをただ単に否定しているだけでは
意味が無い。光強ければ闇深し。善行を志向しつつも、その陰に
横たわっている根源的な悪を認識してフィードバックをかける
しかないように思う。その道が一筋であるほどリスクは巨大に
なるものである。キッパリ













 柄にも無くキッパリと言い切ったけど、このような問題は確実に
検証する方法はないですから、概念イロエロの範疇なんでしょね。
しかしぼくの中では100%確実なことで、「経験として繰り返し
うる」共感として主張できるんだい。モンクアッカ


























 追記:突然思い出したが、あの繊細なる表現者、半角氏は何処
に行ってしもうたんやろ?たれそネットに詳しい方がおられたら、
そっとおせーておくれ。お頼みもーす。プロの棋士とかプロの
雀士がいるくらいなんだから、彼の大好きなゲームで自立してた
らイイな♪とかおもた。言ってることが鋭くて偽善者、偽人には
煙たい存在だったのかもね。



































更に追記2:近隣を覗いてて、ふとおもた。


あの根性真っ黒けな怪文書、ネガネガ・キャンペーンはいったい
誰の腸(はらわた)から出てきたんだろ?あの性格のイイ?総理
ぢゃないよね。党執行部か、官邸の高官か、はたまたお友達の
政治家か?いずれにしろブツはばら撒かれたわけですから、総理
が知らないわけはねえ!って気になるんですが、どーですじゃろ?
贔屓の引き倒し弁当閣下。