4月21日(火)心の探求、いのちの根源、覚書き


 こんにちは。曇りのち小雨。過ごしやすい。






 古代ギリシャは戦争で奴隷を捕まえてきたので自由人は
生活のためにあくせくしなくとも良くなった。それで議論
ばっかしして観念の世界に遊んだのであーる。だから万物の
根源は何か?について殆んどの考えは出尽くしていたのです。
そのなかでもデモクリトスの「万物はアトムからなる」と言
う考えは現代の素粒子論や細胞学に結びつきました。








 つまり物を分けて分けてもうこれ以上分けられない不可分
の粒子をアトムと呼び、これが世界を形作っているとした。
一方、ギリシャ哲学の祖タレスは万物は生成流転する波で
あり、その代表を「水」とした。これは物質とエネルギーは
同値とした相対性理論に結びつくでしょうね。







 「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。」と
いう方丈記の世界観とも相通ずるところがあります。現代で
いへば食い倒れ太郎氏の動的平衡とか。何が言いたいのかつう
と、およそ人知の及ぶもの、及ぶべき事柄は既に昔から素材は
あったということです。これは人間の脳の構造が数十万年の
単位ではまったく変らないから、そこから構成される考えは
五十歩百歩であるという、極めてお釈迦様の手の平的な侘しい
思想が浮かび上がってきます。脳は全てを構造化する。







 だいぶ前から「心とは何か」について折にふれ考える矛盾を
犯しているのですが、それは「作用的な存在」であり、誰かが
精神とか魂とかの名前をつけたから実体があるように思ってる
だけでホントは実体はない。思惟したり意思したり嬉しかった
悲しかったりする働き、作用しかないのである。つうのがW.ジ
ェームズの過激経験論。最近の脳研究でも脳内物質がこのよう
な心的作用の契機になってるという知見もあるから、ほんとに
心は単なる作用だけなのかもしれない。







 そういう見地から「わたし」とは何か?つうと、そりは「意
識の流れ」であーる。と打てば響くように答えが返ってきます。
雪だるまを転がすように少し前の意識を今の意識が相続し次々
と累積して膨れ上がってく。そういう過去の意識の流れの集積、
代表が「わたし」であり「あなた」である。その違いは機能(
意識)の同一性であり、「わたし」と「あなた」の違いは機能
的区別であり実在的区別ではなーい。とジェームズくんは言っ
とるよ。







 つまり水に起こった波みたいな作用なのかな?実体は単なる
水で原子論みたいに水分子そのものが意味を持つ訳ではない。
意味があるのは波動作用のほう。生命はうたかた、「かつ消え
かつ結びて、久しく 止 とゞ まる事なし。」 動的平衡なり。
世界のすべてをコンピュータで記述できるのなら、それは1、
0のビット・パターンに落とせる。ドットのあり、なしに対応
する世界。ドットそのものはアトムや細胞のように意味のある
ものではない。水のように中性的なものである。しかしパターン
そのものに意味が宿っている。波動的ではなかろうか?








 生命もそれを構成している物質、分子、原子に意味があるの
ではなく、それらは絶えず入れ替わっている。意味があるのは
恒常性を保っているシステムそのものであり、これが動的平衡
である。というのがW.ジェームズ&食い倒れ太郎ミックスに
タマムシ色の解釈を加えた「私と心の生命観」であーる。








 本命題は底流として、今後も新しい妄想概念が湧き次第、時
おり顔を出すかもしれない。そんなビットで生命や心が記述で
けるわけあらへん!つう方がもしもおられたら、逆にコンピュータ
で記述出来んものは何かを探求すれば、生命や心の不思議に
迫れるのかもしれません。視覚・聴覚はデジタル化できるけど
一番難しいのは、やはり匂い、臭い、香り、薫りのような希ガス