10月21日(金)酔っぱらって、モナド論にフロイトの原型を見る

 こんにちは。終日曇り。北寄りの風、20℃前後。夜半、
弱雨。明日は終日雨だとか。秋雨前線が南からのし上がっ
てきた。




 ふう。蜜柑と柿を少々残して、大量の果物をほとんど消費
したぞう♪子供の頃は、大人になったら好きなだけ果物を食
べてやるんだっ!つう夢を持ってたが、大人になると酒ばっか
しで、甘いものなんか食べたくなくなっていた。夢って可能性
だからかな?欠乏に対する憧れ!













 ココロとカラダの関係を問う心身問題はデカルトの二元論
から始まりマスタ。身体といふ物体から果たして魂は生まれ
るのかどーか?デカルトは思惟実体(認識主観)と延長実体
(嵩を持っている物体)を論理上明確に区分し客観的な科学
の基礎を作りました。しかしこれは思考実験的な試みで、実
際には心と身体がお互いに影響し合っているということは分
かってますた。近代から現代へと至る哲学の道筋で、この問
題は絶えず大きな宿題としてのしかかってきたのれす。














 すべてを神に委ねる間接的な結びつきは機会原因論といひ
ますが、これは宗教を哲学に持ち込む過大な仮定として現代
ではあまり支持されません。














 近年の脳神経科学ではクオリアという主観的で生々しい
感覚の質感が取沙汰されていますが、これがどこまで物質の
物理的な振る舞いに結びつくのかは、生命の探求以上に難し
い課題です。永遠にその謎には迫れないかもしれまへん。
















 人間の知性で、その知性のよって来る大本を理解でける
ようになるのか?の根本的な問題もあります。無限に照らし
合う二枚の鏡。自己認識し合う無限の入れ子動的平衡
常に流動する合成体(全体)と部分を構成する実体たる単子。
そもそも語りえない範疇に属するものが神や来世と同じく
心の由来ではあるまいか?つまり永遠に証明不可能だと。















 意識と無意識の狭間に生じたモナド論を読んで感じた事。
















 だいたい意識そのものが未だに謎ですからねぇ。睡眠や麻
酔、無意識的行動、意識が途絶えたあとで覚醒しても何故
以前と継続性があるのか?記憶と人格の連続性は何が保証し
ているのか?などなど、まだなーんにも分かっていないのれ
すよ。意識は単なる脳内のサーチライトで、実際の活動は
表層に上ってこない膨大な無意識の作用。虫や魚は無意識
だけで生きているのでしょうかっ!いや、そーでわなーい。
そりでわ彼らに自由意思ってのがあるのでせうかっ!こっち
を選ぶか、あっちを選ぶか?つう意味では自由意思はあるで
せうね。つまり選択可能性って意味ではね。でも、大部分の
動作は定型的で本能だけに操られているように見えまふ。
人間もまた、これとどっこいどっこいだと何故言えないんで
せうかっ?この辺を誠実に考察すると、実に悲しくもおもす
ろい心地ぞするっ!と。















イヤ~~、ヨッパラcッチマッタイ♪グーグー