2月23日(木)霞が春景色を彩り始める頃(霞始靆)、季節にも意志はありそう?

 曇り時おり弱雨、のち晴れ間。10℃〜16℃、60%。厳寒の底は脱した模様。

 三食ともレトルトおかゆを食べた。(ふぐ雑炊、たい雑炊、かに雑炊)





 自由意志なんてないよ?

 論理(知性?)でいくら詰めても、どーしても分からない問題があるとカントは述べた。神の存在とか死後の世界、宇宙の果てや時間の始まりなどである。これらは勿論経験でも分からない。自由意志ってのはあるのか?それともすべては既に決定されているのか?の論争もこのような問題の一つである。神を信じていた頃は(今でもそういう人は勿論いますが)、全ては神の思し召しのままに決まっているとされた。神による決定論ですね。神が自然の摂理(力学?)に変わってもそれは変わらず科学的決定論になりますた。しかし人間は、毎日の生活を自由意志(自分が自由に行動や考えを選択できる判断力)に基づいていると思って生きています。

 近年の脳科学的には、少なくとも運動選択に関しては、意志よりも先に無意識的に選択が為されているという実験が支持されてます。この解釈はイロエロと成されていますが、明晰な意識による判断だけが自由な意志を支えてるのではないということは、ハッキリ言えます。・・・では、なぜ人は自由意志があると思って生きているのか?それは生きる上での進化が与えた幻想ではあるが有用な一つの脳機能(無意識下でのそれぞれ時間差のあるたくさんの脳内平行処理を意識上で合理的に解釈し統合するため)なのではアルマイト?つう意見もありまふ。

 だから我々は、自由意志に従って生きていると思って、能動的に生きていけるのですね。例えば、自由意志なんて幻想でホントはナインだよ!と教わった学生群は、自由意志はあるのだと教わった学生群よりも、不道徳で規則を守らない傾向が強まるとの実験もありました。そして社会的には、自由意志はあるのだという前提で、刑法の罰則が定められていますのだ。

 でも、ホントは自由意志があるのか無いのかは良く分からない。身体や無意識、準意識、意識など全て含めた総体として、一人の人間を眺めれば、ひょっとして自由意志はあるのかも知れない。しかし、無いのかも知れない。つうことで、この問題も、意識を意識(理性?)で調べようという構造自体が、カントの不可知論に陥っているのかもしれません。




 傾向としては:宗教学者天文学者、宇宙科学者、脳科学者、などには決定論者が多い。哲学者、法学者、文学者、生物学者素粒子論などには決定論者は少ない、つうことでしょうか?数学者はどーだろ?これは分かれるような気もしますね。・・・・・天体の運行や宇宙の進化にはあんまし自由意志の余地はないように見えますが、生物の行動や素粒子の振る舞いが決定論的だとも思えません。つうことは、対象のレベルによってもちげーのかな?社会の動きなんかは、個人の力ではどうしようもなく決まっているようにも見えるし、個人の判断で変えれるようにも見える中間かな?・・・ま、いずれにしろ知性の限界つうことでヨロピコ。どもども。