2月22日(日)自分は他人、他人は自分の現象学

 こんにちは。晴れのち薄曇り。穏やかな天気。
今日は2のゾロ目。そういへば漏れのPVも昨日のどこかで、
88、888を通過したようだ。めでたいめでたい。




 ときに自他の考えでいけば意識というのは自分固有で、他の
人のは経験できないのですから不可知であーる、つう意見を
散見します。俺が見てる赤はホントに他の人が見てもこの様な
色をしてんだろうか?とかね。解決不能の難問。





 でもね、こんなんで悩むのはアフォ。解決不能の問題に幾ら
あがいても無理無駄ムラ。「無記の思想」がいっちばーんですぅ。
どうしてもこじ付けたいのなら、同じような遺伝子で同じように
発生してきたのなら、だいたい同じようになるでしょー。





 でもね、ここが人間の不思議なところ。可塑性がとても大き
いのれすぅ。虫とちげーとこ。生まれてからの環境がとても
大きく影響しますよ。例えばね、赤ちゃんのときから狼に育て
られたら、這いつくばって食べ物を口だけで食べますよ。ウー
ウーなんて言いながら。日本で生まれた子はブッシュマンとは
まったく異なった習性を身に着けまする。だから我らは環境の
子ということも出来ますよ。





 我ら人間は生後半年は自他の区別が付かないとか言われて
まする。それが半年杉ると、お母さんと鏡に映ったお母さんを
区別できるようになる。でもまだ自他の区別はつかない。それ
から人の振る舞いを真似するようになります。自己への他人の
侵入の開始ですぅ。





 それでね、ようやく3歳前後になると自分ではないものとし
て他人をとらえ、他人ではないものとして自分をとらえれるよ
うになるんよ。それでね、鏡なんかを見ても自分が分かるの。
だから、見るということがとても重要になってきて、「見る」
という働きの出所として自己を自覚するとともに、他人も「見
る」というはたらきの別の出所として認識できるようになるの。






 そして他人の視線を通しての自分、自分が他人に対してある
姿をした存在であるという自覚が羞恥心を育んでいくんだい。
鏡に映った自分を自分として認識でけるのは猿とか象とか海豚
とか他にもいるけれど、恥を恥として認識できるのは人間だけ
なんだい!だから恥ずかしがるのはちっとも恥ずかしいことで
はなくって、むしろ誇らしいことなのでは?とか思ったのれす。





 そしてね、他人の視点に立てるっつうことは、「我らは同じ
世界に現前しているのだ!」という信念の基になるのだすぅ。
ジャック・ラカンのちんぷんかんぷん分析学より)




 孟母三遷ぢゃないけど生育環境って大切ですねぇ。