7月12日(木)京極夏彦講演録(その1)

 ポツリポツリと終日雨模様。湿った強風が纏わりつくが気温はそう高くない。



 折角ですから一応上げておこ。「世界の半分は読書からなる」(京極 夏彦)

1.時間の分割
時間は一方向である。時間は取り戻せない。無くなった時間に未練を持たず受け入れませう!若作りはやめませう!過ぎ去った「ついさっき」は二度と見ることはできません。過去は記憶、未来は願望、現実は「今ここ」にしかあーりまへん!
さっきそうだったからという記憶で今と未来を推測するのが認識といふものですぅ。過去や未来という実は何もないものにくっ付けないと世界を理解できないというのが認識の構造だす。
このようですから時間の本質については何にも説明できないのれす。説明できないから時間を空間化して線で表わしたりしまふ。ヌボーっと進行する時間をヌボーっと説明しても誰も理解でけないからです。そしてその線を刻まないと分かりません。つまりデジタル化ですね。時計の目盛はそのためのものですぅ。
2.言葉はデジタル
時間の次に手に入れたディジタル技術は言葉でやんす。言葉によって事物は分割される。自分と他人、男と女、心と体。禅では不立文字というのがある。ようするに言葉では伝えきれないことがあると。それを無理やり文字は分解して、分けて、分かったことにする。「月」という文字と地球の衛星とは実は何の直接的な繋がりはなーい!頭の中だけで「月」といふ文字と現実の衛星をつなげているだけであーる。過去、現在、未来という概念と同様であーる。「生」と「死」は対であるのか?例えば30cmの
物差しを「生」とすると、左の端が「誕生」、右の端は「死」である。「死」は長さを持たない1点である。そしたら「死」の反対は「生」ではなくって、同じく1点である「誕生」であろうよ。「生」に対応するものとしたら「死」ではなくって、むしろ長さを持った「死後の世界」であろうよ。このような概念も「分ける」機能を持った言葉の発明によるのれすぅ。(は〜〜〜〜ァ、理屈っぽ過ぎてちかれたびー)
わだすたちの生活は言葉の中で成り立ちまする。しかし絵の中の餅(言葉)は食べれません。「世界の半分は書の中にある」はこのこころだすぅ。すなわち言葉で語れるもんは半分しかねーでげす。でもね、言葉と文字(絵?)はすげー発明だす。これにより過去を留め置くことが可能になりますた。ラスコー洞穴の牛の絵も過去を留め置く文字の源流。我らはそれによりて概念を操作でき、世界を享受でけるのだすぅ。
もうすっかりちかれちまったから、けふはこりまで。なお、言葉が下卑てしもうたのは演者じゃなくって、すべて引用者の文責に帰しますう。(内容の半分は誤解から成ってるかもね。プ)この項、続くかも。ではでは。