1月4日(日) 関係性は世渡りか


こんにちは。快晴。連続してずっと富士山がよく見えてるとは
極めて目出度いことなのかな。景気が悪くてスモッグが減った
とか?






 駅伝を見ているうちに、あっという間に三が日が過ぎてしま
った。本年の課題、「人の繋がり」と言う意味ではイイ出だし
ではあった。孤高に独りで誇り高く生きていくというのは美し
くも悲しい生き方ではありますが、よほど強くなければ適いま
せん。








 私ども凡人はつるんで(関係性のネットワークの中で)しか
生きれません。有名な哲学者、和辻哲郎も「人間(じんかん)
学としての倫理学」の中で人間学とは「間柄の学」であーる!
と喝破してまする。20世紀前半の著名な哲学者ブーバーも
「私と汝(ぼくときみ)」のなかで、人が世界に対してとる
態度を「私と汝」と「私とそれ」の二つの根源語(グリュント
・ヴォルト)で表わし、個人(ぼく、きみ、それ)が先にある
のではなく、関係(ぼくーきみ、ぼくーそれ)領域がまづあっ
て、その中に個人(私、汝、Es)が入っていくのであーる、
と良く分からん念仏を唱えたよ。西田キタロー先生はこの関係
を「場所」とか言って「場」を読むことをすすめておーる。








 それで、ブーバー先生は「ぼくときみ」の関係世界は経験的
な世界ではなーい、というてたよ。なぜなら経験はぼくの中で
生じるぼく個人の出来事。だからぼくは”それ”を経験できる
が、ぼくは”きみ”とは出会うんだ。ぼくは”それ”を対象と
するが、”きみ”を対象とするのではなくって、きみとの関係
の中で生きるんだ。ぼくと同様にきみは常にひとつの主体で
あるのだから、これは当然だよね。ミラー・ニューロンからの
帰結。主体的な人間同士が出会うのですから、これは真剣勝負
ですぅ。








 でも、現代は人間を利用する対象”それ”にしちゃって通り
すがりに経験するものに貶めてる希ガス。でも、都会はあまり
にも「我ーそれ」関係が多くて空気が薄い。ハァ〜はぁ〜
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトヘの移行と同期してるの
かもね。








 で、ついでに思い出したのですが華僑の世界では義兄弟(幇
とか結誼)つうのがあって、生まれたときは違えども生涯助け
合い、禍福を同じゅうする、つうのがあった。日本ではあまり
聞いたこたないがヤクザの世界や学閥、地縁、同好会などに
少しのこってるのかも。これも人の本質のひとつかな。







 と、また思い出したのは新興宗教なんかもこの助け合いや
結盟で禍福を共にするってとこが大きいような希ガス。学会
とかエホバとか互助組織と思えば理解できないことはない。







 何かにすがりたい、とかお互いに助け合いたい、つうのは
この点だけを取り出だして見つれば、理解できないことはない。
バトル理論でも連携した集中投入が個別分散したのを容易く
各個撃破できるもんね。ホゲー