11月8日(土)決定論は意志や思いの前では主観的に無力

こんにちは。曇り午後一時小雨。気温低め。



 なんか一つの物差しを持って、それを物事に当てはめて、それで
すべてを割り切って、世の中をすべて分かったような顔をして生き
てる人を見ると「しやわせ」なんだろうな、という思いもたまには
頭をかすめます。







 科学技術の発達と連動して思想・哲学が発展していく現象もあり
まする。例えばガリレイコペルニクスデカルトに影響を与えた
り、ニュートン力学決定論的な世界観に影響してカントの純粋理
性批判に結びついたとか。







 その後、熱力学のエントロピー概念が生命の不可逆性への洞察を
もたらすとか、量子論がゆらぎや確率論的な波動概念で決定論
くさびを打ち込んだりとか。社会的に悪用されかねないのが進化論
的な世界観ですぅ。適者生存、優勝劣敗はナチズムなんかに誤用さ
れてた。そう言えば、顔の形の定量分析でゲルマンが最も進化した
形態であーる、とか似非科学も駆使してました。コワイデスネ







 今は、DNA的な決定論分子生物学を中心に社会に影響を与えて
ます。これは進化は全てDNAで記述され、DNAにランダムに起った
中立的な変異が自然選択され適したものだけが形態として保存さ
れる、つうもの。だから、一生懸命努力して獲得した形質や能力
はなんらDNAに反映されないから遺伝もしない!つう極めて味気な
い世界観が構築されてます。







 この学会の主流に反抗して、「いや、獲得形質は遺伝しないと
わ言い切れない。遺伝はDNAだけではなくもっと多様的なシステム
として作用するのだ。」という足掻きもありまする。







 ぼくはどっちかつうと後者にシンパシーを感じてる方で、希望的
に言えば、進化の機構はまだ全て解明されてる訳ではなくDNAで
蛋白が記述されてることだけは分った程度、全体の発現機構は未だ
解明の端緒についたに杉ない、と言いたい。







 しかし、全てがDNAで記述されてるという決定論が主流だとしても
ですね、生物的な流れの一段上、メタな視線で人間を眺むれば、何
の能力もない赤ちゃんが立派な人格者に育つのは生まれてからの
学習にあるのはアポステリオリにガチ。そして人類の叡智はDNAではなく、
文化、芸術、学問によってのみ伝えられていくのです。だから後天
的な獲得形質なんぞはDNAに乗らなくっても、なんら不満はありませ
ん。人間としてはね。






 しかししかるに、昆虫とかサカナが花や海草にクリソツなのは
偶然の選択ぢゃなくって、彼らの意思がどこかに反映してるんぢゃ
ないかとの思いは、主観的に我がままに独りよがりにわたしの脳髄
を満たしておるのでございます。では。