認識論は意味論に入り込んでオワル


こんばんは。薄曇ときおり薄日。爽やか。






最近、カブに凝ってる。カブといっても株ぢゃないよ。蕪のほう。
何しろ安いんだ。77円で大きな玉三つに葉っぱまでついてる。
刻んで油揚げと一緒に味噌汁にしたり、薄く切って塩と昆布茶で
即席漬けにしたり、卸して焼き魚に添えたり、と重宝。それに
蕪とか大根の葉っぱはとても栄養があるらしいんだ。(自己満足)
そうだ!そのうち育ててみよう。むかしラディッシュをやったこと
があるから、多分簡単に出来るんじゃないかな。無精者でもね。







「我々が知覚できないものは存在しない。」と、
「知覚しようとしまいと世界はそこにあるんだ!」という立場が
あるそうだ。すべては意識が作っているような気もするし、
もともと俺がいてもいなくても世界はそこにあるような気もする。
個体にとって見れば意識の消滅とともに多分世界は消えるだろう。
でも生命って連続した継続性のように思うのも意識が作りだした
幻なのかな。そうではないような気持ちは強いのだが、良く若乱。
つう蒟蒻問答をしつつ生涯を終えるってどんな人生だあぁぁぁ〜







考えても結論の出ないことって多いですよね。要するに気分次第。
それに、そんなことなんかの役に立つのん?という功利的立場に
立てば、殆どの事は究極的には役に立たないだろうな。究極的に、
つうのは人生の意味論的な意味でいってんだけど。生物的に言えば
簡単なんだけどね。捕食して生殖して蔓延(はびこ)ること。で、
蔓延ってどーすんの?とか意味ないループでしょ。だから、
下手な考えは止めて、何かに打ち込んで楽しく過すしかないのさ。
でも苦しみもなければ楽しさも薄味つうとこもまたあるから、何を
か況や。ま、世界の物凄く厳しい目に会ってる人々は考えるなんて
余裕がそもそも無いんだろうけど。水が飲めたりパンが食べられれ
ば、そして穏やかに朝を迎えられれば、もうそれだけでしやわせ
なんだろうな。意味論って意味ないじゃん!アホポンタン!






すこし冷えてきた春の晩。世の中天災人災あわせて災害が多いですね。
ではでは。気分が下降気味だから早くなんか面白いこと見つけよう。
おやすみんみんみーん♪