人はどれくらい自分を信じられ、また信じられないのか


こんばんは。曇りときどき薄っすら晴れ、夜半雨。気温やや緩む。



ときどき脳がすべてを作り出してんじゃないかという疑問が湧いてくる。
前に錯視錯覚なんて書いたが、脳のある部分が損傷を受けると、視覚を
補う事が出来なくなって、例えば、格子を通して人を見ると、ブツ切れ
状態の人物を再構成できなくなって、その人物を認識出来なくなって
しまうそうだ。勿論、格子を抜け出して、その人物がまるまる見える様に
なると、ちゃんと認識できるようになる。






また、例えば外界がすべて上下逆になるような眼鏡を付けさせて、生活
させてみる。最初のうちは戸惑うが、慣れてくるとそれが当たり前の様に
なって、まったく違和感が無くなるそうだ。それで1週間生活した後で、
その眼鏡を外すと、今度はその正常状態がとても奇異に感じられて、戸惑
うそうだ。ま、実際も網膜には上下逆さに映っていたり、左右の運動神経
の制御は脳内ではテレコになってるから、上下左右のバランスも脳が司っ
ていると言えるのでしょう。






それで聴覚はっつうと、これは「空耳」というものがあります。これは
相手の言葉を聴きたいと思うあまり、脳が自分に引き付けて、作り出して
いるのだ、と言えそうです。ある会話を途中でプチプチと空白を入れると
まったく意味が分からないのに、その空白にノイズを入れると、そこを
脳が補って意味が分かるようになったり、ヘンナ機械音の下に字幕を入れ
たら、その機械音が会話のように聞こえるようになるなどの実験をTVで
やっていた。






だから、外国語などもそれに近い発音でしゃべれば、相手が勝手に意味を
付与してくれるとか。「掘った芋、弄るな?」なんて例もやってたな。
こういう、予断によって脳が勝手に作り出す現象は、何も視覚聴覚だけで
は無くって、脳の構造そのものに起因する本質的なものかも知れないと、
常に自分の考えを疑う姿勢は、あながち無駄な努力ではなかろうかな、と
か気をつけてはいても、空耳のように聞こえてしまうのは如何せん。






こういうのも自己言及性の矛盾で、分かってはいても、どー仕様もない部
類なのですかねえ。何しろ、実際そう見えたり、そう聞こえたりするので
すから、よほどの懐疑者でなくては、持続させるのは難しいです。世の中
に予断、偏見の無くならない所以かも。ではでは、おやすみなされませ。