ハッピー・エンドはありうるのか


こんばんは。曇りがちな晴れ。風強くさぶい。


レトリックとも言えない姑息な技法に事前言及ってのがある。たとえば、
「言い訳するわけではありませんが・・・」といってモロ言い訳かます
「威張る訳ではないが・・・」といって自慢たらたら、とか、「良く知
らないのですが・・・」といって分かった風なことを長々と述べたりする。
こういうのを見るとイライラっとしますが、自省すると最後のやつなんか
は、僕もときどきやらかしてるな。反論を少しでも緩和しようかとの思い
なのかな。何はともあれ潔くないし、自他ともにはんずるかすい。




さて、もともと生物に本質的に含まれている矛盾ていうのは、理想的な
環境が続くとそれに甘えてダメになる、というとこだね。良い環境が
実現したら勢いに乗ってますます繁栄するってことがあまりない。
こういうとこを観察した人間は、たとえば「麦踏み」とか「剪定」とか
試練をあたえて良く育つようにする。




これは人間も同じで、甘やかされて育つとろくな者にならないと云われ
ている。(でも悪い人間はいないな、自律できないだけで)
で、ほいほい運に乗ってとても良い境遇を手に入れても、嬉しさはつかの
間、長続きはしません。すぐに飽きてきます。これは定常というものが
実は理想状態で、現実は常に変動する波のようなものだ、ということを
表わしているのでしょう。「人生、万事塞翁が馬シカ」とかね。




一方、えらく苦労して艱難辛苦の結果、成功したときは喜びもヒトシオ、
有りうべからザル歓喜を手に入れたり出来ます。でも、こういう状態が
永く続くかといえば、そーでもない。ようするにハッピーという状態は
それほど永くは続かずに、またノンベンダラリとした日常に戻ってしま
います。ですから、マターリという状態、ほどほどのぬるま湯が一番
長続きがするのれす。




ハッピー・エンドというものがもしもあるとするならば、それはそこで
本とにエンドにならなければ有り得ないつーのが結論。たとえば、老人
がマージャン卓を囲んでいる。そのうちの一人が秘かに役満大三元
単騎待ちをしていて、場を読むと一枚は残っている。で、オーラスで
牌をツモっったとたんにパッタリとうつ伏せになる。見るともう息はし
ていないが、顔には満面の笑みが張り付いている。握った手を開けたら
上がり牌の「北(ペー)」をしっかり握っている。生涯初めてダブル
役満を上がった喜びに心臓が耐えられなかったのだ。





これは法曹やってる友人の親父にほんとに起った話。「ご愁傷様でした」
とは言われずに「いい死に方だったな」と羨ましがられるほうが多かっ
たとか。ま、相対化の権化、僕から云わせれば、大きな仕事で成功し
ようが、趣味で大きな喜びを得ようが、本質はおんなじですから、これは
まさしく大往生のハッピーエンドといえるでしょう。




だからエンドを迎えていない中間状態では結論は付けられないと言うこと。
で、何を自分に言い聞かせたかったというと、苦しいとか辛いというのは
大きな喜びの素であって、波の底が低ければ次は最高の高みに立てると
いうことです。辛いときはホントにつらいけどね。でも生物の原理を知っ
てれば、少しは紛れることもあるかも知れません。



今日は柄にも無くくさい話ですが、たまにはためになる話もしたくなる
もんです。なにしろ、たまやんがためやんですからね。ではでは。