存在の大本もコトバだったりして


こんばんは。晴れのちくもり。ややさむ。風強く落ち葉さらに増す。
イカーで大川まで足を伸ばす。大きな袋を持った中年のカップルが
中からパンの耳をだしてユリカモメ*1に撒いていた。100羽以上が狂気
乱舞して群がる。まるで鳥使いのよう。変な趣味だ。



コトバのちから3


探し物はなんですか?「あった!」と喜ぶのも束の間、「ある」という
「存在」はあっという間に消え去ってしまいます。昔の人は変わっていく
もの変化するものは真に存在するとは言えず、イデアとか神とか永遠普遍
のものが真の存在者だと考えておりましたですよ。


で、「ある」にも「〜である」という本質を指し示す用法と、「〜がある」
という存在を指し示す用法があるのはコトバの定義です。まづ「光あれ」と
言ったら光があった、というのは一面の真実ではある。なぜなら「光あれ」
というコトバがなければ神様も認識できないからね。だから信者は聖書の
コトバをありがたがるんだ。



でもただの「ある」は永遠普遍ですが中味がなんにも無い。「〜がある」
「〜である」の「〜」による限定がないと存在そのものを確定できない。
「柿である」「柿がある」の柿はそのうち食われるか腐ってなくなって
しまうが柿というコトバによって存在は確定するのであーる。というのが
神は死んだといったニーチェの「永遠不変のものなどひとつも無い、変化
こそが真の実在である」という存在論でR。



でも、コトバが無ければ人間はホントに野生の狼少年になってしまうので
あろうか?これは再現実験ができませんから考えるしかない。ヘレンケラ
ーは「水」というコトバを手のひらでおせーてもらうまでは、荒れ狂って
いたというから、何らかの手段で外界と繋がっていないと人間らしくなれ
んつうのはもしかして人間の本質かも試練ね。



で、ネットの平面世界でも外界と繫げれる手段としては意味ありってこと
ぢゃあるまいかな。こどもの頃から寝たきりで親指でしかキーを使えない
人のHPを見たことあるけど、実にみずみずしい感性で、よく泣かされまし
た。その人の世界がすべてそこにつまってるの。コトバっていーな!とか
おもたYOー。ではでは、おやすみなさい。またあした。元気でね。

*1:昔は都鳥とも呼ばれてたようだ