時計が時間じゃなくって意識の持続が時間なんだって

こんばんは。晴れのち曇り。肌寒し。だいぶ日が短くなった。
4時半には既に薄暗くなってます。光陰(時間のこと)矢の如し!




時間には量的な時間と質的な時間があるらしい。前者は近代化以降に
時計で測られるようになった空間化された時間で、後者はたぶん今でも
南海の椰子の下なんかで流れているより根源的な本来の時間らしい。
そもそも時間と言うものは時計の針とかで空間化できない意識の持続とか
現象の持続を表わしたもので、変化の無い氷ついた世界では時間観念
そのものが意味を持たない。



たとえば音楽なんかでは、譜面は一つ一つの音の高さとか強さとか長さ
とかを記述しているが、実際は一つ一つの音が区切られることも無く、
明確な輪郭もなく、分割不可能で相互に浸透した、質的な変化の連続体を
なしている。このように微小時間単位に分割不可能な有機的に結合した
音楽のような持続したものが質的な時間である。つうのがベルクソン
いわゆる純粋持続というものであり、意識に直接与えられた時間である。



分かったかなー?俺はイマイチ。ベルクソン自身は振り子時計を例に示し
て、次のように述べている。

「時計の文字盤の上で、振り子の揺れに対応する、針の動きを辿るとき我々が計測しているのは持続である」と信じられているようだが、さにあらず。実は我々はもろもろの同時性を数えているだけで、持続の計測とはまったく別物である。空間の中では針や振り子の位置はどのような場合もただ一つしか存在しない。というのは、外部空間には過ぎ去った数々の位置については何一つ残っていないのである。一方、我々の内部では、意識的諸現象の有機的な組織化、ないし相互浸透のプロセスが継続しており、それが真の持続を構成している*1

               「時間と自由」アンリ・ベルクソン

考えなきゃ少しも不思議じゃないのだけれど、考え始めると
時間ってホントに不思議なものなんだよなー。人類は時計無しで
数十万年暮らしてたのですから。で、時間を空間化しちゃうと、
「アキレスとカメ」のパラドックスに落ち込んじゃうよ。プ



う〜ん、秋はやっぱし月が美しいですねぇ。
春は花  夏ほととぎす  秋は月  冬雪さえてすずしかりけり
変化に富んだ日本の四季はやっぱり花鳥月雪ですねえ。おやすみ

*1:俺がうえで述べた音符と音楽の例、実際の音は音符のような明確な区切れ目はなく相互に浸透している