1月26日(土)論理と実感、実感と計測の齟齬とは。

 概ね曇り、時々晴れ。2℃〜10℃、27%。北西風強く、体感温度低し。




 運動と時間:

 こりはギリシャの昔から哲学的な命題にて、「飛んでいる矢は止まっている」とか「アキレスは亀に追いつけない」とかが議論されちょりましただ。論理的に分割論に陥ると、どーしても解けない矛盾になってしまうんす。動画をコマの積み重ねだと観じれば、一つ一つのコマは止まってます。また運動を無限分割と見れば、追いつくための無限回を凌駕できませんです。ハイ

 時間を連続体と見て、空間的な分割をしなければ、これらは極普通の生活感覚の中に回収されてしまいます。我々がビビッドに感じている時間は、決して空間的に測れるような時間ではありません。その流れを内観して過去把持、未来予期を現在に重ね合わせた一つの纏まりであって、徒に分割されざる実体です。

 ベルクソンはこれを意識の持続としてとらまえ、意識の統一性を内観する直感で把握しようとしました。これには身体の意識も含まれます。持続は継起(個別のイベントが次々と起きる)ではなく、連続した一つのかたまりとして自覚されます。一方、フッサール現象学的還元(先入観、知識、想定など偏見に結びつくものをカッコに入れ、ありのままに眺めようとする態度)の結果のこった残留物を純粋意識と言い、これを時間意識とした。

 時間に関してはアウグスティヌス(5世紀)の過去は記憶、現在は知覚、未来は予期でこれらはすべて現在の心の状態であるという説が長く哲学界を支配していた。すかすフッサールの時間図表による時間意識の可視化をはじめ、マクタガートのA,B,C系列による時間の非実在性までイロエロな時間論が花開いたのは、神による時間の支配から解放されたためであろうか?

 時間の流れは、生き生きとした現在!すなわち命の流れへと進み、生命の哲学の誕生を見たのでした。いじょ、ギリシャから現代にいたるまでの、極めてはしょった時間論の概要でしたあああ♪ども。・・・ふむ。ハイデガー存在と時間が抜けてたか。どもども。