信仰は賭けなのか?賽を握りっぱなしのわたし

こんばんは。今日も秋晴れの爽やかな一日でしたが、ボクの心は曇天。
でも真っ白な富士山や夕焼けの美しさを見てると少しなごむ。



頭の良い人の信仰ってこんなもんかな、とか付近を見てて思った。



パンセの賭け:
神はいるかいないか二者択一問題。もちろん賭けないというショボイ選択
もあるけど、生まれたからにはそれは赦さないとか。


で、神はいる方に賭けて、もし神がいたらば、君には永遠の生命と無限の
法悦が待っている。そして現世も意味のあるものとなろう。賭けに負けて
神がいなかったとしても、もともと失うものは何も無い。


逆に、神なんかいないよ。に賭けたら、たとえ賭けに勝っても得るものは
自分の認識力に対する自尊心のみ。死後は虚無だから、何も得るものは
無い。そして賭けに負けて神がいたとしたら不信心から来世の幸福を全部
失ってしまう。


テナ訳で、神がいるに賭けた方が絶対にお得ですよ〜 、とか。


一方、日本では親鸞
他力本願にて「南無阿弥陀仏阿弥陀仏の御心のままに)」の念仏に全て
を賭ける。
「わたしはイロエロな欲望、煩悩からはどんな修行をしても逃れ得ない。
だから、このままなら必ず地獄へ行く事になる。それなら阿弥陀の本願*1
に賭けてみよう。釈尊の説教がもし嘘だとしても、失うものはもともと何
も無い。この上は、ただただ一心に念仏を唱えるのみ。」


とか、一切のはからい、作為をやめて仏に身を委ねるにしても、ある決断
は要るらしいのだ。いわゆるダメモトの思想は東西で共通しているような
気がする。こころのヒネタわたくしです。こんな人にもいつか信仰の瞬間
は訪れるのでしょうか。でも無くなった人々にいつかは会いたいなという
願望は薄っすらと残っているような気がする。ではまた、おやすみなさい。




 

*1:心からひたすら信じる人を浄土に掬ってくれなければイヤダという阿弥陀様の願