TV見て、マイカーぶっ飛ばして、壁にぶち当たった一日

こんばんは。中空に三日月のくっきりときれいな秋の夜になりました。
MLB中継で見たボストンの空にも同じ月がかかってたなと思ったが、
当り前か。三日月の延長に薄っすらと円が見えるのは地球の反射光が
月にまで達する為らすい。俺、にしこりのファンなの、ひっそりと。
以前は江川ブタのファンでもあったのだ、ひっそりと人に知られない
ようにして。




今日はハチ公前で街頭演説があるっつうから、マイカーぶっ飛ばして
見に行ってきた。ローゼン閣下とソラマメ殿下のそろい踏み。なんか最近
急に気力が充実してきて元気になったお二人。このまま漫才しながら巡業
に入るらすい。「閉塞した社会を打ち破るぅ!」とか張り切ってたけど、
年寄りの冷や水にならねばよいけどね。と、一応悪口をかましとこ。





阿呆の壁とか一時派流行ったけど、考えてみれば大小の壁はそこら中に
ありますね。経験しなけりゃ心底で納得できないとかあるけど、無数の
価値観のはざ間に壁つうものは林立してますぅ。たとえば、



ものすごく戦闘的な集団の中ではマトモナこといって突出を抑えようと
する人は、軟弱日和見となじられます。逆に頭脳集団のなかでは猪突
猛進型の人は、筋肉脳みそとか馬鹿にされます。映画なんかも価値観
がモロに響く典型ですね。フォード映画ならインディアンは悪者、狼と
踊ろうなら白人は悪辣とか。要するに見方、立ち位置、価値観で隔て
られた小世界は無数に存在するのだ、つう超相対化。絶対的な善悪も
正邪もないよ、とか言い杉ると「人を殺しちゃ何故悪い」と言い張る
おこちゃまがたくさん出てくる悪寒。




しかし、極端なことを言えば、一人ひとりの経験や価値観は微妙に異なる
のだからその周りにぜんぶ壁があって、みんなはその壁に穴を空けて
覗いているだけなのかも知れませんね。その壁の穴が大きいか小さいか
は各人の経験や知識、人格に基く度量の大きさで決まるとか。
そういう観点から言えば「アホの壁」とか言ってる人は度量が蚤の糞と
言えるのでは無いだろうか。






実は最後のほうは自己弁護。定見が無いので、何も言い張らない玉虫魂を
価値観の多様性から相対化して弁解してるだけ。きわめてミットモナイで
すぅ、あ それミットモナイ、あそれそれセヤセヤセヤセヤ、そういえば
ハチ公前に御神輿が乱入してきたな。ではでは、おやすみなさいまし。