4月6日(土)日本橋で買い物した後、画廊に寄る。

 朝の内少しパラパラしたが概ね花曇り。9.0℃~15.8℃、67%。8200歩。処々でサクラ満開だが、まだ散り始めてはいない。どーか強風が吹きませんように。ナムナム

 

 新朦朧主義とは:覚え書き。

 日本橋高島屋へマイカー(ずてぃんしゃ)を飛ばす。目指すは高島屋画廊Xで開催中の王舒野展 -「桜」 見る前に -ですぅ。新朦朧主義は視覚認識を現象学的次元に還元し、無意識的な偏見、情緒などの不純物を取り除こうと試みまふ。(それらは属する社会の既成概念や倫理観、文化、個人的な知識や経験、などからもたらされまふ。)

 これらをすべて取り除くと生活が成り立ちませんが、不純物をリセットする試み自体が非認識的視覚にみちびき、人間中心的な世界観のリセットにもみちびくという仮説を立てます。

 以下、本人の談話:

 「桜として見る前に、”世界をどう見るか、どう感じるか”ということを、視覚芸術探究の原点としている私は、日常の知見が、つねに人間主体の立場に囚われているという点に問題意識をもっている。とはいうものの決してこのような日常の世界の見方を否定しようとするのではなく、それによって遮蔽された別の世界の見方、感じ方にも触れたいということだ。

 つまり、世界を人間の立場からの認識対象として把握する、という見方、感じ方は、同時に非認識的な(非人間本位な)知覚次元を遮蔽している。私がアートの非日常性を通して触れようとしているのは、日常の中で遮蔽されたこの非認識的な(非人間本位な)知覚次元である。
 自身の絵画創作のベースとしている「認識以前の知覚状態への回帰」は、まさに先述した試みの具体的方法論である。この実験的な世界の見方、感じ方をベースにした実験的絵画表現の展開は、日常の世界観を超越する体験に触れ、またそのような体験を呼び起こそうとする試みである。

 そして、こうした試みによって、日常の世界観の偏りへの平衡的な增補を願っている。また、こうした人間本位な対象認識的世界観の打破は、人間本位な情報化(知識化)社会への增補的(平衡的)アンチテーゼも込められている。
 今展は、ちょうど桜の開花期と重なり、桜を題材に、観賞者が身近な世界の異なる見方や感じ方に触れることができればと思っている。
 桜として見る前に⋯より原初的、根源的な知覚次元ヘ——
そこには、まだ対象化認識に限定されていない超然たる存在そのものがある。
そこには、主客未分の世界全体との一体化した状態がある。
そこには、認識する以前の無限な知覚の自由と開放性がある。
そこには、まだ人間の認識に介入されてない世界本来の自足自安がある。」王 舒野(ワン シュウイェ)

 

 さて、認識的視覚体験以前の非認識的さくら体験ができるかどーか?朦朧とした画風の中には確かにサクラのふいんきは認識できますた。哲学的絵画とはコンセプチュアル・アートの一つなのかな?