8月5日(土)完全主義で割り切れる世界なんてな〜い!哲学的考察。

 薄曇り、ときどき薄晴れ。25℃〜31℃、69%。プールだん。このところ運動が習慣化してきたな♪




 論理なんて人間のホンの一部に過ぎない?:

 頭だけで生きてると、どーしても唯我論や唯脳論に陥りがち?「この世界は自分の頭が創ってるんだい!」とか「人生一炊の夢」だとか。ま、脳が創ってるのは、そーだと思うんだけど、では脳は何のためにでけたんかっ!植物や原生動物には脳はあーりまへん!でも、環境に適応して生きてまふ。

 確かに、人間の感覚・知覚は完全ではありません。錯覚や誤認識が沢山あって、正確ではありません。でも、それを以って、この世界は全て幻想だっ!仮想だっ!というのは、ちと短絡杉。やはり世界の実在・実体というのは確かに在って、それを認識する手段に少しの曖昧性が混雑するって考える方が自然ですよね?

 視覚の色盲色弱はあるけど、我ら人類は殆んど同じ視覚対象を認識しているんだい!って共通認識がないと、共同生活もままなりません。それを「他人は、この「赤」を自分と同じような「赤」と認識しているんだろうかっ!」つう疑心暗鬼に捉われたなら、世界は自分の内部だけに縮退してしまいまふ。

 他人が自分と同じように感じているのは証明できないけれど、ほとんど同じように感じているのではなかろーか、という確信の元で社会生活が成り立ち、かつそれが上手く機能しているので社会が成り立っている状況に鑑みれば、「知覚の同一性原理」を受け入れてもイイのではないかと思うこの頃。もちろん一般の世人は、このことに対して寸毫の疑いも挟まずに生活しているわけですが。

 当たり前だと思っていることに、そもそもの疑問を呈するのが哲学だとしても、広がりの無い我に閉じこもる思考は、何の発展性もないと思うんですぅ。仏教でも、世界は永遠か?世界は無限か?死後の世界はあるのか?とかの議論は無記として放置し目の前に現前する問題に集中したと。カントの形而上的な課題は議論しないにも通じます。ども。