4月15日(水)コロナが醸し出すモータリティ・サリエンス。

 薄晴れときどき薄曇り。5.5℃~21℃、35%。気温差が激しい。

 

 杞憂と楽天

 我々の周りには絶えず死の可能性が充満しているのですが、それに気が付かない(あるいは気が付かないふり)で生きています。ハイデガーは「死への先駆」として、絶えず死を意識しながら現在を充実させるべきだと言います。神によって意味を付与されていた人間は、それが無くなると有限性や偶然性が露わになり、その最たるものは死であると。それゆえ生まれた時も死ぬときも、全き孤独の中にいる。ハイデガーは、人間存在は本質的に孤独で有限である、こういう死への先駆的な覚悟がないと、日常の生活に流されて本来的な生き方ができない、と言いました。

 これは古代ローマの「メメントモリ(死を忘れるな)」や葉隠れの「死ぬことと見つけたり」と似ているようで少し違います。前者は「今を楽しもう」であり、後者は、「利に執着せず自分を捨てて考えろ」ということになる。ハイデガーの先駆とは、神のいない荒野に放り出された人間存在(Da-Sein)の今を生きる覚悟といったところであろうか。人は必ず死ぬが当分自分の番は回ってこないと思って、まんべんだらりと暮らしているのが大衆(Das Mann)であるとする。

 一方ニーチェはこれとまったく逆の考え方をします。実際不安定でいつ死ぬか分からない世界で、今ここを充実して生きるには、死なんか忘れて、のんきに生きることが生の充実なのだと言ふ。いわゆるタンツェン(舞踏)の思想ですね。(7歳から絶えず死の問題に取り組んできた中島ギドウ先生の「死の練習」に触発されて。)どもども。