4月15日(土)散る桜、残る桜も 散る桜 (良寛)

 極めて雲の多い晴れ。16℃〜23℃、68%。花粉やや多い。昼は汗ばむ気候。

 昨日出歩いたせいか、けふは眼がかゆいですぅ。川面には、いまだに花筏が漂っています。最後の美ですが、これも早く掬っておかないと、ヘドロの原因になると。美醜もまた裏腹なり。毎年、この季節になると、感慨することなどを印す。





 生きてるだけで丸儲け?

 知識として知っているという事と、身に沁みて実感しているという事は全く違うんですが、この事象を実感している人は更に少ないんですぅ。ま、一番分かり易いのは「晴朗拍子」いや「生老病死」ですね。生きて、老いて、病に倒れ、死ぬ、つうことは誰にでも必ず訪れますか?と試験に出れば、誰でも「YES]と答えられるでしょう。

 しかし、これを心から実感して生きている人は少ないでしょうね。自分が!という1人称は抜け落ちて、「誰かが」という統計的な3人称の覆いで目を塞がれております。たまに2人称のおまえや、家族がというごく身近な人にこれらが起って、身につまされるくらいかな?

 そこで古人が、このような油断を戒めて「葉隠れ」とか「メメント・モリ」で老病死を身近に引き寄せ、「生」を際立たせようとしたのだすぅ。でも、まんベンだらりと生きてても、必ずやって来るのが老病死ですから、たまには思い出してやってもエエでしょう?

 ま、常にメメントしてるのも煩わしいと思てる御仁には「生きてるだけで丸儲け」くらいの軽いノリで代用してもイイのかも。本来、生物ってのはこのような偶有性の中で生きてこそ、その本性を発揮できるようになってんですから。毎日毎日、必死で、かつ楽しく生きて、偶然コロっと死ぬというのが、生物界の掟なんすね、本当のところは。生物ってのは「生きてるもの」で、生きてること自体が奇跡的なことなんす。どもども。






 ちとおつむに浮かんだのでメメント:主観の檻と網膜の自覚、不可知論?