10月21日(日)何事も完璧を求めてはダメダメよ、たえざる漸近でOK。

 秋晴れの快晴!13℃〜22℃、30%。今日は、富士山が良く見えた。





 初台方面に進出す:

 久しぶりにメディアアートのメッカ@NTTiccに入ってミタ。「感じるインフラ、共感と多様社会に向けて!」なんて特別展をやってた。触覚とか体感のことかな?と思てたら、もうちょっと範囲が広かったですよ。興味深い!実に興味深い!「伝わらなさ」つうのを根本的に考察する、これからの社会に必要なインフラの在り方を提言している。

 先日、イグノーベル賞で、股の下からものを見ると小さく見え、奥行き感も無くなるつうのがありました。視覚は独立したものではなく、体感に影響を受けているってことを立証しました。触覚とか聴覚も視覚に影響するっちゅう研究もありますね。展示では触感で街案内をするっつうのもありました。風船の犬がバネで繋がってて、持ち手の親指と指指に振動を与え、その位相差で前進とか後退を指示でけると。実際にやってみたら、その風船ドッグに引っ張られるような感じで歩けます。

 あと目の不自由な人のスポーツ観戦を補助する時に、言語の解説と共に触感や音を使うと臨場感が増すとか、空手や柔道の解説に呼吸や布の質感を使うとか、言葉を話すこと自体の分析から、話者の意識の辞書を作るとか、イロエロなおもすろい試みがありました。アート界も、感覚を五感に分けて分析したあとの、総合するフェーズに入ってきましたのだ。


 もともとコミュニケーションてのは、当初から「伝わらなさ」の壁に阻まれる宿命にありますた。ユクスキュルの環世界つう例もあるしね。ミミズの見る世界と鳥の見る世界は全く異なっていると。人間同士だって、その生育環境、文化的、身体的、認知的なバリアで完全に思いを伝えるなんてこたー極めて困難なんすね。話せば分かるなんて幻想はありまふが。

 すかす、ここで諦めるのはアホの仕業。伝わらなさを認識した上で、あらゆる手段を行使して伝えようと試みること、人間同士が感じ合う場を設定すること、こういう無限のプロセスが、人間を人間たらしめているんだっちゅうシシュポスの岩が、いまこそ必要な時代はないでしょう。


 でも、一番伝わらないって、言葉とその翻訳でしょうね。いや、言葉に落とす時点で、かなーリの詳細が抜け落ちますから。この辺は、またそのうち。ジャン