9月23日(日)秋分なり、今日から夜がだんだん長くなるとか。

 雲の多い晴れ、のち曇り。22℃〜28℃、53。もう銀杏が落ちていた。お婆さんが一生懸命に拾っていた。これはフライパンで炒って食べると、べらぼーに美味しいのだ。

 本郷方面に進出す。反骨の俳人金子兜太さん追悼のイヴェントなり。シリアから来たアラブの詩人ムハンマド・オダイマ氏が金子さんの俳句をアラビア語で朗々と朗唱したりけり。ご自身の軍隊体験を詩に昇華した詩文をもアラビア語で朗唱したりけり。一同感激しきりなり。オダイマさんは古事記折々のうた石川啄木などのアラビア語訳者としても知られている。




 シンプルとは:美しいけど美しくない。

 むかしIBMは「シンプル イズ ベスト!」とかゆっていた。なるほど、この複雑な世の中をスッパリと割り切れる内はベストかも知れない。物理でも、全てを統一的に理解でける理論を求めて日々研究している。複雑な社会システムを理解する上でも、ノイズは捨象して、社会を動かす原理原則を求めるのは、時に極めて有効である。

 すかす、本来複雑なものをシンプルに理解しようとすると、それが実体から乖離して様々な誤解を生じまふ。単純化は有効ではあるが、目指すべき指針になるとは限りまへん。そしてときには独善に陥ったりします。特に「生死」の問題で、あまりにも単純化すると問題が宙に浮いてしまいます。生死と言うのは極めて個人的な問題でもあるからです。

 例えば、「いのちは大切」であーる!という言明は、極めてシンプルで、誰も逆らえませんが、具体的な指針を示しません。死刑やトリアージの問題、遭難者を助けるべきか二次災害を避けるべきか、など個別の問題は至るところにあります。白熱教室でも、5人を助けるために1人を意図的に頃すのは善や否やつうトロッコ問題もありましたね。

 また「いのち」と言えばアルネ・ネスのディープエコロジー課題もあります。人間の「いのち」だけを尊重するエコロジーは我利我利亡者ではないのんか。全てのいのちは平等なんであーる!つう主張ですね。現に動物倫理つうのが欧米で盛んに研究されちょりもすが、理性の無い動物には何やってもイイんだい!つう主張は、では幼児や耄碌した老人はどーななんだっちゅうブーメランが待ってまふ。動物を食べたり、苛めたり、閉じ込めたりするんは、人間の独善ではないのんか?つうくらいの余裕をかませるようにはなりまひた。ども。

 近々では野生動物(鹿、イノシシ、クマなど)の食害をどーすんべーつう課題もありまふ。また電力やブラック企業とも関連して、いのちか経済か?つうような二分法の問題設定も流行ってますが、こんなに単純に割り切れないのが「いのち」の問題ですぅ。そもそも密接に関連している「いのち」と「経済」を2分対立させるシンプルな問題設定自体がアフォかと千回ゆいたいですぅ。わたしが大事なの、仕事がだいじなの?と迫る恋人のジレンマとも申せましょうか。

 知的肺活量の少ない者は、どーしてもシンプルな課題設定に依存しがちでやんす(こりは、もれも含めてですが)。問題設定つうのは、ときに問題解決よりか大切だっちゅうのは、あらゆる学問での経験的な事実ですぅ。ドンモドモドモ