12月31日(日)とうとう大晦日、幸福について考えてみた。

 概ね曇り、ときどきぽつぽつ。2℃〜5℃、55%。気温上がらず、朝方少し雪が舞ったようです。大晦日の初雪は130年ぶりだそうです。



 あなたにとってしやわせとは:

 何となく分かってるんだけど、焦点を当てると、逆にぼやけて消えてしまうものってあると思うんだ。幸福ってのも、そんなものたちの一つのような気がします。その最中は気が付かなかったけど、後になって、ああ、あの時はしやわせだったなぁ♪とか追憶する。例えば、病気になって苦しんだり、怪我して動けなかったり、痛かったりすると、ああこの痛さや苦しみが無くなれば、どんなにしやわせだろう!と、心底感じます。が、いざ直って見ると、嬉しいのは最初だけで、すぐに普段の生活に埋もれてしまいます。つまり、何も無い日常が一番しやわせだということでしょうか?

 次に思いつくのは、セレンディピティというか、偶然に幸運が訪れたときかな?「在りがたき、仕合わせ(とてもありえないような、めぐりあわせ)」は「ありがとう」にも「しあわせ」にも結びつきます。宝くじが当たって1億円!やったあああ!とか。ふとした切っ掛けで、素晴らしい異性と出会えたとかいう「縁」。これは既定の決定論ではない世界観ですね。あるいは人生の決められたルートを、従順に歩いていては得られません。

 やはり、最後に残るのは人との繋がり、人間関係かな?また、これがしやわせの根本として一番大きいような気がします。思考実験で、全ての人間が居なくなり、自分ただ独りになったと想像してみると、良く分かります。人間の全ての行為、仕事、遊び、スポーツ、藝術、研究、生活自体、何かを達成した喜びなどなど、は人との繋がりが無ければ、すべて空虚で無意味に思えませんか?(cf.クモやカマキリのような、生来単独の狩人は、一匹でも充分自足し、獲物さえ獲れれば嬉しいと思うんだ。)

 では、人と繋がり、人に認められれば幸せなのか?・・・人との繋がりは時に、関係性の呪縛に陥り、かえって不幸になることもある。繋がりを求め過ぎて、それを得られないとか。また、時には独りで充足して自律し、しやわせそうな人を見ることもある(修行者とか芸術家とか。でも脳内では、独りでないのかも?)。やはり基本の上に、イロエロなバリエーションが有り得ます。・・・こう考えると、根本には人との繋がりがあるが、その状況をメタに突き放して眺める視点も必要な気がします。



 んで、しやわせならそれでいいのかっつうと、それはそーでもないと。これがこの世のむずかすいところ。今の状態に満足して自足していたら、発展は覚束ない。いっぽう、苦しみもがく中から、創造や発展が起きるという事実があります。しやわせだと、しやわせではなくなる。また、しやわせではないと、しやわせになれる。「苦悩を通して歓喜へ!」これも、裏腹なこの世界の真実なり。・・・つうことで、わだすの信条@万事塞翁が馬(禍福はあざなえる縄の如くなーり!)に、無理やり結び付けた考察でしたあああ!


 では、ちと正月の準備に取り掛かろうかな。例年の如く、「炒りドリ」と「ヤツガシラの煮物」を仕込むんだ♪しばしメンゴ。