5月20日(土)小説とは、もう一つの人生なり!

 靄った快晴。16℃〜28℃、68%。夏日であちゅい♪




 四谷方面に進出す:

 (フィロ)ソフィア大学にて、芥川賞直木賞などを選考する日本文学振興会が主催する「文学講座」を受講する。講師は浅田次郎大先生です。お題は「文学とは何か、小説とは何か」ですぅ。昨日読んだ「陶淵明伝」と、前に読んだ「壬生義士伝」が課題図書なんで、読まないと受講できないんすよ。義士伝の方は出版された途端に読んで感銘したから今回は読まず。こう見えても新選組オタクなんすね。以前は日野の2トンぢゃなくって、日野の土方邸のすぐそばに棲んでたこともあるしね。浅田先生は人物の造形がリアルでかつ高潔でかつ面白いんですぅ。いわゆる泣かせ屋さんですね。彼の小説を読むと、いつも目が真っ赤っかになるほど、涙を搾り取られます。たぶん自分でも泣いてるよ、きっと。

 約90分の講義にて印象に残ったことなど:芸術とは「天然の人為的再生産」なんですと。ただしシジフォスのような虚しい努力と思われることもある。物質的な「桜」も表現で心を再現でけると。一瞬で掴まえる描写とは「願わくば 花に下にて 我しなむ 春如月の 望月の頃」で、心の桜が甦ります。日本の文学が天然自然と結びつくのは「俳句の季語」を見ても良く分かります。花鳥風月なくして日本文学は成り立ちません。そして、日本のココロを総括したのが利休です。いわく、、、芸術は「シンプル、ナチュラル、オリジナル」に尽きると!

 次の大転換は明治期に有り。追い付け追い越せで欧米の文学を追った結果、自然主義文学にたどり着いた。すかす人間の営みをそのまんま描くという自然主義は、キリスト教の呪縛からの解放という意味があったのに、日本には肝心の宗教の呪縛が無いから、上滑りにならざるを得ないと。。漱石もそれで神経が衰弱してしもたと。江戸時代は近松のどろどろ人情劇を始め何でもあったのにね。でも日本独特の、自分自身の内面を見つめる純文学と、エンタテインメントに徹した大衆文学に分かれたのは日本しかありません。変だなとは思えども百年続いた既成事実には勝てまへん。

 そして浅田氏の小説観は:「美しく、面白く、分かり易く」という三つの大切ですね。これは、日本の三島、川端、谷崎に共通しているし、4世紀の詩人@陶淵明の詩の美しさは、えも言えません。政府は文学部廃止とか血迷ったことを言ってますが、文学・哲学は自然科学や工学など全ての学問の根幹だと思います。

 「蒼穹の昴」で中国三千年の科挙の歴史を調べたら、その課題は、時事論文、四書五経の素養以外に作詩文の感性が最も重要視されていたんですね。それでその人の人格を見たのでしょうか?いわゆる文官といわれた所以です。今の字も読めないソーリ、副ソーリとは格段の違いですぅ。そいで大先生、「帰去来兮(かえんなんいざ)」を朗々と読み上げ、一同その美しさに感銘す♪漢詩は声に出して詠むに限ると♪それで自分の小説も読んで見て、句読点や改行を校正するんだすぅ。


 その小説作法は:オリジナリティに欠けるから、類型的人物は書かない。人間を如何に書くかは、電車の中などでマンウォッチングして、その人の人生を想像してみると。アッと本を取り落とすような人物を造形できたら、始めてオリジナルと言えます。あと、お米大好き人間の蘊蓄を傾けてましたが、自分の好きなことを仕事にした人物独特の充足感と余裕が感じられました。






 その後、四谷から代々木に進出し、定例の代々木ヴィレッジを見学してから、明治神宮を参拝した後、明治神宮文化館で蕎麦を食い、土産屋でオリジナル新茶を買って、表参道の南青山温泉で汗を流してから、青山通りを渋谷方面まで約2万歩の行程を踏破す。途中で青山ブックセンターに寄るのはいつものこと。充実した一日であったなあ。どもども。