晴れのち薄曇り。7℃〜15℃、52%。花粉多い。楠の老葉が若葉と入れ替わって落葉中。今の時期を麦秋ならず「楠秋」と命名す。
狭量とは:度量が狭いことだす。
最近某ベストセラー作家が「敵性国家にひれ伏すような漢文授業は廃止すべきだっ!」と述べて炎上いや顰蹙を買っている。自分の国を愛し誇りに思うというのは健全ではあります。またある意味では、アイデンティティの確立において有用であろうかと。しかしこれはただ日本のみにては非ず。世界のどの国を見ても、自国優先的な心情は他国の劣等視を誘発するですから、これはもうある種の普遍性(個別の具体例だけではなく、イロエロな国においても万遍なく現れる性質?)を持つと言ってもエエでしょう。
商社、学者、ビジネスマンあるいは政治家として海外に雄飛し、語学も見識も広めたと思われる人士が、グローバル人材かと問われると、必ずしもそーではない。自らの国を愛するけれど、それを相対化でける人材が真のグローバルなんであーる!前記国際人士の中にも夜郎自大におちいって、他国を侮る野郎はたくさんおりまふ。思うにこりは、自分に自信が無く自分を愛せない代わりに自国にその思いを委ねているせいではアルマイト?こういう人士は必ずといってもイイほど攻撃的、闘争的になります。イヤハヤ
ですから、グローバル人材を育てたいと欲するならば、まず自国の文化を愛しかつ精通し、次に世界中のあらゆる文化を尊敬できるような人材を育てねばなりまへん。リンガフランカの習得や地政学的見識は、その次と言ってもエエだしょう。生涯郷土に籠ってたカントや、ノーベル物理学賞の益川さんを見てみれ!引きこもっててもその見識は広い、しかし単に海外に行ってるだけの人は、広く活躍してるように見えても狭い、これが人間世界の矛盾の一つだすぅ。どもども。
保身は恥だが、役に立つ?
保身てのは、生物学的にいえば善なるものと言えましょう。すかす群れで暮らす生物では、必ずしも狭い保身が群れ全体を保身するとは限りません。そこで倫理というものが出てきたのですねィ。人類において、「保身」が極めて醜悪に見えるようになった由縁でしょう。しかし元々の個体保存の本能も残ってますから、保身を全面的には否定できないと。美学的にやんわりと否定する程度の進化しかしてないんですねぇ、現在の人類は。それで流動性の極めて少ない職場では、「保身」が金科玉条になるわけだすぅ。官僚とか、大企業社員、政治家、学者、教師、などなど「御用!」と言われれば恐れ入る職業はたくさん残っておりまふ。こりは個人個人の責では非ずして、ひとえに流動性のない組織や社会システムのせいでしょう。悲しいのは、そのようなシステムに浸りきった個個人たちが、このシステムの変更に極めて強い反発を示すのです。嗚呼、無情!