8月28日(日)天地始粛(天地の気が粛す、暑さもおさまる頃)、カント

 曇り、夜に入って弱雨。21℃〜25℃、88%。気温は大分下がったが湿度多し。利根川荒川水系貯水率もようやく70%近くに戻ったもよう。





 形式と内容:

 一般の常識的には、「形にばっかし拘らないで実態とか中味を充実させようよ!」という言説が説得性がありまふ。普段の生活の中では、これに意義を唱える人は極めて限られていると思います。すかす、抽象的な倫理概念の世界では、必ずしもそーではありません。

 内容よりも形式が優先するんだ!ととなえた人がカントだったんす。例えば、「嘘をつくのは良い事か、悪い事か?」の命題において、内容を重視すると、「やっぱし嘘はいけないよね。何しろ人を騙すんだから、誠実ではないよ。」となってしまいます。・・・すかす、DVから逃れてきた友人を匿ったときに、暴力男がやってきて「うちの家内が来てないか?」とゆわれたときになんと答えるか?。。。「はい、いますよ。そこに隠れてます。」と正直に答えるのは倫理的なのか?・・・ここで出てくるのが形式(テンプレート)なんすね。ある定まった形式に従って判断してみようと。

 その形式をカントは「自分の主観に従って行動しよう。しかもその行動を他の人がやったとしても納得できるように。」と普遍化しました。ごくたまに変人がいて、「匿っちゃだめだよ。夫に悪いじゃないかい。」と言うかもしれませんが、「自分は大多数の人間は、DVの被害者を匿うために、いないということに同意するだろう」と思ふ。利己心が前提でもかまいません。なにしろみんながそう考えるだろう、と思えばイイんですから。

 しかして、その公平性はどーすれば担保されるのか?・・・そりは公開性しかないんですね。事実に基ずかない公平性はありえません。いくらでも陰で細工ができちゃいますから。そしてその公開性に基づいた公平性は法の尊厳に帰結するんだすぅ。普遍法則を求めるなら「法」は感情(愛など)に勝ると。知性による公法を尊重することが、感情による愛国心に勝るという言説を聞いて、洗脳されますたあああああ!どもども。