6月27日(月)むにゃむにゃ自己言及の不可能性とは

 梅雨の晴れ間、つうか快晴。22℃〜28℃、70%。
 今日はプールでひと泳ぎ。種から芽が出たゴーヤくんは、余りにもひょろひょろしているので、新しい苗を1本購入す。




 数とは:

 1,2,3、・・・という自然数は生まれつき持っている数覚だと言われている。数論的に基礎付けようとするとえらく難しいんですが、人間は直観的に1,2,3は区別できるようです。それ以上大きな数は多少頭を使って考えないと出てこないと。多いか少ないかという量の目安は、昆虫や魚類などにもあると言われています。

 この数を基礎にしてどんどん抽象化していったのが数学。今では60以上の分野に分かれてしまい現代数学の全容を把握するのはとても困難です。少数の公理から組み立てた論理体系なのだから、もともと人間が全部分かっていたことを再提示しただけなんだという極論もあります。でも、ぐだぐだした思考過程を効率化したんだという前向きな捉え方もあります。近代科学の発展は、数学の高度化と共にあったという指摘は事実でしょう。光や音波などをスペクトルに分解するフーリエ解析とか、ニュートン力学を定式化する微積分とか、相対論を記述するローレンス変換やテンソル解析、量子論ヒルベルト空間上の作用素論など表現が発見をもたらし、また発見が表現を進化させた。

 ブッシツあるいはその間の作用が生命や意識を齎すとしたら、それを表現する新しい数学が必要になるのかも知れません。で、そのような機運は果たして熟しているのでしょうか?要素の集合よりか、関係性の数学ってのがあったような希ガスる。我々は果たして自分の網膜を、直接感じることができるのか?主観的な意識の研究とは、始めた瞬間に客体化されてしまうのに。むむむ。