11月25日(水)簡単なようで難しいゼノン、ノンノン、ビバノンノン

 終日寒雨しとしと。気温は深夜の12℃から6℃まで単調減少中。食器を洗う水が冷たくなってきた。





 ふとした考察:人間(じんかん)至るところ無限あり。

 無限集合とは、その要素が無限にある集合であーる。そしてその特徴は、部分と全体は等しいということなんであーる。例えば整数と偶数は有限なら大きさは倍違います。でも無限なら偶数を2で割ったのが整数ですから、各要素が全て対応付けれますのでおんなじ大きさと言へるですぅ。これが無限の不思議なところ。このように数えれる無限を可算無限と申しまふ。一方、直線上の点の数など余りにも多くて、とても数えれない無限もあります。これも無限集合ですから部分が全体に等しいという特徴を持ちます。例えば1mmの線上の点と1mの線上の点は投射により対応付けれますから、おなじ大きさと言へるです。どんなに極微な線分も、宇宙規模にでっかい線分も、その上の点の数はおんなじなのれすね。ぷ

 而して、点で全てを覆い尽くしたのが線であるのか?すなわち線は点で構成でけるのか?これは難しいところ。できるようでもあるし、できないようでもある。なにしろ点には大きさがないんだから、幾ら無限個で覆っても線にはならーん!つう考え方もできる。いやいや0x∞は有限になることもあるだろ?つうこともいへるかも。線分の上に点があることは確かだが、その逆は果たしていへるのか?・・・

 ここでごく自然に次のような考え方が出てくる。すなわち線とは点が移動した軌跡であると。静的な数直線に動きを持ち込んだものですね。同様に線分を横に動かせば幅のない線から面が構成でけると。無限分割に関する「ゼノンの逆理」にこのような解釈を持ち込んだ人もいる。静的なものを無限分割したら、無限のステップが生じてどーしても目標にたどり着けない。もともと動いているものは無限分割などできないのだっちゅう意見だすぅ。

 はたまた近代物理学の知見を参考にして、もともと連続と思えるものでも有限の単位(量子)つうのがあって、無限の分割などでけないのだっ!ちゅう解釈だすな。ま、一種の原子論とも呼べるもので、「しずくの比喩」で語られることが多い。コップに水を満たすときの、一滴一滴のしずくのような有限の段階を経て時空は変化するのだという例え。んじゃ離散と連続をど〜対応させるんだっ!つう議論には、量子論でも物質は粒子でもあり連続な波でもあると、その二重性を述べているではないかいな?そもそもこの世界の成り立ち自体が二重性を持っているんだぁああ!と言い張る者もおる。

 古代ギリシャパラドックスが現在まで論争を引きずる面白さ。そもそもブッシツとエネルギーの等価性とか、ブッシツは粒子でもあり波でもあるとか、速く動けば時間が遅くなるとか、この世界の解釈に哲学が(つうか経験論が)追い付いていない現状なのかなぁ。いや数式が神なら、全ては整合性があるんすが。開き直って数式だけの世界で生きてる人も多いですがね。ぷぷぷ