12月9日(火)時間夢幻について

 冬晴れ。3℃〜12℃、47%。昼は少し暖か。プールで1本、かる〜く流す。




 夢幻いや無限を扱えるようになったんは、つい最近なんすよ:

 無限級数の和は、無限大に発散することもあるし、ゼロになることもある。そして或る値に収束する時もある。しかして、無限級数の定義からして、必然的にその級数の項は無限にあるんであーる!発散しようと、どこかの値に収束しようと、その各項を数えれば無限に数えなくてはならーん!ゼノンのパラドックスアキレスと亀の背理は、このような無限級数の性質(発散するか、収束するか)を調べずに、各項を数えんとしたるところに存す。ギリシャ時代には無理数どころか有理数さえ無かったからね?π(3.141592…)とか√2(1.41421356…)とかは、存在さえしなかったんだすぅ〜。どもども。

 これは哲学的思考として、マクタガートの「時間なんてないよ?」のA系列、B系列、C系列にも影響を与えている。連続と離散、瞬間と運動、今と永遠、の分離は現在もなお哲学者にとって挑戦的な課題として厳前しているんであーる!

 そもそも大きさの無い「点」は、幅の無い「線分」の構成要素では在り得ない!でも「線分」の至る所には「点」が存在する。→つうことは「線分」から考えれば「点」は存在するが、「点」から考えたら「線分」存在でけまへん。「線分」の交点として「点」は存在でけるが、大きさの無い「点」が無限個集まっても「線分」を構成でけません。→「点」から「線分」を構成でけるのは、静的な構造では無理無駄斑なんすね。「点」の運動のみが「線分」を構成でけるんすぅ。(暗闇でペンライトを振り回してインスパイア〜♪)






 付記:入不二の解釈

 「マクタガートの理論でわかりづらいのは、A系列B系列といった表現であるが、自分はこれを「内側から見た時間」「外側から見た時間」と考えればいいのではないかと思う。B系列というのは、歴史年表などのように、外側から時間を眺めた場合の系列であるように思う。ただ、マクタガートはこのような年表的な時間理解を、ただの記述の羅列だと考えて、「時間」とは認めないのだろう。

マクタガートは「時間」の本質を「変化」だと考えているから、年表のように固定されてしまったものは、「時間」だとは思わないということになる。

対して、A系列は、「内側から見られた時間」だということになる。私たちは宇宙の中に存在している。宇宙の外部にでることはない。したがって実際は私たちは宇宙の中の変化の系列に含み込まれているのであり、この変化の系列を内部から推し量って「時間」と名付けているのだといえる。時間を観察しようとするとき、観察者自体が時間の中に組み込まれていることになる。この観察者の認識視座は「現在」に固定されているから、「過去」や「未来」を観察することは実際にはできない。では、観察者は「現在」ならば十分に観察することができるのか?答えは、先ほど要約で見たように、「否」である。こうして、過去・現在・未来が実際には客観的な観察の対象にならないことから、時間というものは、実在ではなく、ほんとうは観察主体が生み出した幻想の構造なのだということが理解される。

もちろんこの宇宙の事象は観察者なしでも実在する。そして因果的契機で運動変化している。しかし、その運動変化に「時間」という幻想を覆いかぶせてみているのは人間の観察の働きにすぎない。すべての宇宙の事象は実相としては時間的構造のないC系列として存在している。観察という人間の主観の働き、より具体的にいえば精神の働きが時間構造を生み出しているのだといえる。」・・・→ やはし時間空間つうのは認識の「枠組み」に過ぎないのかなぁ?現に時間認識に関しては、脳内でイロエロな操作をしていると言ふ実験がありまふし、空間認識に関しては、脳の部位がやられると溶け出しちゃうと言ふしねぇ。アーハハハハハ