3月5日(土)啓蟄

 薄曇り。8℃〜15℃、61%。依然カッフンカッフンしてまふ。クシュン





 意味への渇望:

 意識を発達させた人間は、意味が無いと生きてはいけません。意味(価値?)への欲望は、生理的欲望に勝るとも劣りません。養老孟司先生もゆっておりますが、何にでも意味を求める人間はランダムな数を作れません。「自由に好きな数字を言ってもイイよ」と言われても、言った数字は決してランダムにならないんです。それで人間は鉛筆を転がしたりサイコロを振ったりしなけりゃならんのですぅ。

 ですから単に経験しただけでは無に等しいと。その経験を咀嚼して、意味づけし物語に組み込まないと意識上の実体にならないんですぅ。だからあらゆる出来事は物語に昇華し、思い込みで形造られるんです。無意識下に漂流する経験は、夢で整理整頓され物語として定着するという説もありますね。

 突然親しい人が亡くなったり、愛する人と別れたり、大切なものを失ったりした時も、人間はそれを消化して意味づけするまでは次のステップに進めずに、強い不安下で過ごすことになります。運命を受け入れて「ああ、あれはあれで仕方が無かったんだ。」というのも一つの意味づけと言えるでしょう。もっと積極的な意味づけができれば、その方が前向きに生きれるかもしれません。いずれにしろ、今生きてここに在るということを肯定できるストーリーが必要になります。

 そして最後の時を迎えるに当たっての折り合いの付け方も、思い込みの意味づけが必要になるでしょう。

・1:がむしゃらに担げるだけ担いで、それを下ろすときに、やるべきことはやったと得心して氏む。
・2:100歳近くまでがむばって粘り、天寿を全うし枯れるように消える。これには特に意味づけはいらない。淡々と長生きするだけ。
・3:そもそも人間つうのは大したこたーないし、何も持たず求めず天地一切無一物。諸行無常と悟り我を捨てる。これは西行良寛さん。

ま、仏教の本位は3番なんでしょうね。自我を無くせば苦しみも無くなると。色即是空、空即是色。(南直哉語るより)ぷぷぷぷぷ