3月9日(月)身体を介して世界へ!

 煙雨午後次第に強まる。終日8℃前後と低め安定。





 三上晴子の夕べ:

 デカルト以来分断されていたこころとかだらの問題を、身体性を通して統合しようとしたのがぼくのお気に入り、メルロ-ポンティさん。そしてアート界では。
 
 都市空間と身体をモチーフにして、日本のメディア・アート活動を先導した、三上晴子が今年の正月2日に急逝し、現代アート界に衝撃が走った。昨日その偲ぶ会が行われ、友人批評家などの仲間が色々な面から故人の存在を浮かび上がらせた。初期の作品は鉄くず、廃材、廃ケーブルなどジャンクを使った廃墟としての都市を身体になぞらえた造形で、視覚的なインパクトが強いものであった。

 その後、アメリカ留学を経てコンピュータサイエンスを習得し、情報都市と身体へと創作動機がシフトしていった。時代は冷戦期の全面核戦争の恐怖から、グローバル社会のインターネット情報戦争に移行した時期と符合する。元々ニューアカ一派で活躍していた頃から注目はしていたが、作品をよく見るようになったのはこのころからです。五感や重力、視線や皮膜など身体性と結びついた情報表現、それは廃墟としての身体を欲望のコードに結実する。今回の会合で、突然の喪失、中断により呆然としている中から、これらの作品を維持・再現していく方向性が見えたと思います。







 個別性を担保するもの:

 痛みと他者の存在が個別性、複雑性を現在させる。文学は個別の痛みを表現する。イデオロギーは痛みを伴わない。そして痛みは百の顔をもっているのだ。また作家は正論だけ吐けば良いというものではない。複雑性は他者の存在を前提とする。これがないのが、あの〜、その〜、ん?そのさん?

 批判に弱い人:自己愛性な人格障害は劣等感を拗らせることから。

 些細な野次にも切れて、口を尖らせて反論する。批判するメディアは脅しつけて黙らせる。そしてあらゆる言論に過剰反応するようになるんですぅ。ショボーン