3月9日(日)アートと学問の1日

 雲の多い晴れ。3℃〜9℃、35%。





 アートな2日目:

 「さわ ひらき」つながりで英国の現代アートを見にゆく。東京ステーションギャラリーで今日が最終日の「ここだけの場所」展。ブリティッシュ・カウンスルって美術館を持たない放浪の芸術家集団のコレクション。やはし「個」と世界へのつながりがテーマのようだ。色々とドキっとする作品はあるが、ぼくの感性からはかなり離れてる感じ。でも全体のふいんきから現代英国アート界のテイストは感じれまふ。日本のそれとはかなーり違った異空間。こうじゃなくっちゃイカーンつう制約から離れた自由奔放な感じは確かにあります。日本は何かっつうとすぐにオーソリティーがでけて型に嵌りがち。これガチ!

 いわゆる権威主義が骨がらみなんすよ。他者基準優位性人格。ターナー賞をとったエリザベス・プライスのビデオ・インスタレーションが目玉の一つですが、最終日とあって視聴室は30分待ちの行列。しかも閉館まであと40分しかない瀬戸際つうありがたさも手伝って、とてもイイ作品ですた。教会内部のイロエロな造形を切り取って固定した写真の様なビデオは全体と細部のバランスと緊張感を醸し出す。聖歌隊のいる舞台なんかはとても詳しく写してます。ああゆうところは細部を見れば造形の宝庫なんすねィ。

 突然ロックの会場になって踊り出すシーン、その後百貨店の火事で逃げ遅れた人が窓から手を振る(実録)。上に逃げても煙は追いつく緊迫したシーンに、先ほどのダンスの手振りがオーバーラップ。家具屋の家具置き場から出火したと言ふ現場検証も入って、実録とイメージの混在した不思議なリアリティ。これも日常に穴を開けることなのかなぁ。何気ない生活の場にはいつもリスクが潜んでいると。他にも鳥や日用品の中に見出された美しい作品がいっぱいありますた。さて次は何処を放浪するんだろうな?この作品群たちは。出口のそばに水色の梱包箱がたくさん積んでありました。




 3.11メモリアル・シンポジウム:問われる大学知ーエネルギー・リスク・ガバメントー

 つう伊東乾主催のシンポに出る。黒川清さんや鈴木寛さん、ハヤノン、など原発事故に関心の深い人たちが全学部(8つ)から集まって討論する形式。大分世間の関心も薄れてきてるから黒川さんが喝を入れてた。責任の追及やアビューズよりも、事実の解明が大切ですぅ。一ノ瀬さんは自然災害はなぜ予測できなかったか、原発事故は何故防げなかったか、よりも強制避難による2次災害死者(1660人)を問題にしたがってたな(これは福島県津波震災の直接死1607人を上回る)。農学者はセシウムはすぐに土壌に固定されちまうから害は少ないという報告をしていて、全体として秩序志向なふいんき満々、老小中陽太郎氏は一人でその辺を突っ込んでいた。
 ま、イロエロな見方から見た方が奥行きを持った立体視がでけるってなもんや。これ現象学的極意!ハハハ 討論の途中で抜けたから最後の方の熱い議論は聞けなかった。ザンネン




 そうそう黒川さんがこれを紹介してた。→http://naiic.net/iv
 憲政史上初めて国会が要請した調査委員会の報告が無視されているから、勝手連が勝手に作ったものだが主意は曲げてないから参考になるでしょうとのこと。今後各国語に翻訳予定。お暇なら見てよね♪チュッ








 偏差値って標準偏差のことなんだっ:統計的バラツキの数値化

 偏差値ってのは日本人の間にごく当たり前に沁み込んでるけど、究極の差別だってことには気が付かないと。これは鼻糞のにほいが分からないのとおんなじ。欧米の教育界が使ってないのはホントだすぅ。




 ライオンと水牛のバトルっちゅうのをダーウィンが来たでやってたどっと:

 自然界って究極の弱いもの虐めなんだ。強くなければ生きて行けない、優しくなくても生きている意味のある世界。倫理って相対的なものなんだなぁ。ショボーン