11月30日(土)科学の最前線は芸術と接するのか?インスピレーション

 青い空白い雲の晴れ。6℃〜14℃。空気が透明な日は観光飛行船がぷかぷか。
中央線沿線も駅前はイリュミネーションが華やか。東京では、東日本大震災から大分経ったなぁ。タハ




 
 芸術とは:

 「どこまでが芸術なのか?」と言ふ問いはとても難しい命題であーる。
例えば、便器に題名をつけて署名しただけの「泉」いう作品はコンセプチュアルではありまふが芸術と言へるのか。または、展示室の中を空っぽにして「空虚」などと題名を付けたパフォーマンスは芸術と言へるのか。コンセプトやパフォーマンスを理解でける観照者がいれば芸術と言えへるのかも知れまへん。しかし作品自体が自律した構造で芸術ということはでけまへん。

 またこう言ふのもありまふ。「無対象表現」つって対象を無くしてしまうんすよ。対象への捉われを回避して、感覚だけを表現しようと言ふもの。「黒の正方形」とか「白の上の白」とか形と明度のみを感覚で描く絵画@シュプレマティズムは解釈者を必要とせずに作品のみが自立しているように見えます。何かを描くと言ふことの本質とは何か?対象が無いとしたらば無限の表現が可能となるのではないか?すかす、対象なき感覚は、実態から遊離した表現の砂漠に堕ちるかもしれません。

 象(かたち)として現れるもののみを実在とする現象学では、意識作用を内容と対象に分けまふ。そのうち対象をカッコに入れて(現象学的還元)、想起された内容のみを無条件で内視します。すなわち、全ての前提抜きで現れ出たもののみを実在とする方法論。これって哲学かよ?とか思いまするが、単なる方法ですから許してくんろ。


 こういう考え方が当時の新芸術運動に影響を与えたことは邪推でけるほどに、無感動な芸術が筍出したことは事実であーる。つまり芸術とは、何でもありなオープン系なんすよ。そーでなくてはゲージュツとかカタカナで表記すらできん罠!ワナワナ