7月24日(水)桐始結花(桐の花が実を付ける頃)

 曇りのちときどき小雨。25℃〜27℃と気温は低いが湿度極めて高し。お肌にねっとり。





 リアリティとは:

 「リアリティがまったく無い」と言う批判は批判者自らに返ってくるブーメランです。なぜならそれは己の主観から一歩も出ていない発言だからです。つまりリアリティを感じる/感じないは自分の経験範囲(世界観)を物語っているだけで、それが如何に広いか/狭いものであるかを開示してしまうからです。ネットの発達による1億総批評家時代での「批評を批評しているのをまた批評する状況」の中では特に注意したいものです。

 とは言え、批評のあらゆる言明は主観的ですよね。「この辺りが極めて面白い」とか「このシーンはとても美しい」とか「とにかく面白くて大笑いしてしまった」とか。つまり批評とはその人自身を裸にし露わに表現するもので、見ようによってははんずるかすいものなんす。

 と言う見地からは、批評家が増えるってえのはコミュニケーション論から言へば風通しが良くなるのかな?裏も表も分かっちゃうんですから。プ この世界に真の正解といふのは無ーい!と割り切ってしまえば、人それぞれの考え方を多少は許容できる余地が生まれるんではアルマイト



 しむぽ史観:

 ある事象の正当性を主張する根拠に、「それは古い考え方だね」とか「そりゃアナクロニズムだよ」とか「それはナウくないぜ」とかを持ち出す人がおります。進んでいない!遅れている!という時流の強迫感。これは実はある価値観に依拠した固定概念なんすね。すなわち、この世界には始まりがあって終わりがあると言ふ直線的な史観と、この世界は常に進歩しているのであって古いものは悪く新しいものは善だと言ふ進歩史観の合わせ技。でも、この考えが合っていると言ふ根拠はじつは何もないんす。

 遠方の人と話し合える携帯や、遠方の物を見れるTVは夢のまた夢の装置だと200年前の人々は思ったのでしょう。だが、いざそれが実現されたれば、それが人生の充実に資するどころか、返って人生を上滑りさせ薄っぺらいものに変えたのかもしれません。あの山の向こうにはどんな世界があるんだろ?と言う方がどきどきする夢があると思いませんか?

 つまりツールがいくら発達しても、人生の充実に資するどころか逆にそれを妨げることが多いと言うことですか?単純直線志向の対極として円環史観ってのがあります。この世界には始まりも終わりも無く、常に輪廻しているという思想です。この方が、みんな焦らなくて落ち着いて暮らせると思いませんか?いつ何処をとっても、それは永遠の断片なんですから、そんなに焦って何処へ行く?って思います。それに循環していれば資源や環境は破壊されませんしねっ♪

 どの時代をとっても、たかだか50年から100年の一瞬、束の間の人生をアセアセしながら過ごすのは如何なものかと。ちったー落着けや!バーロー!